異教徒迫害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 02:20 UTC 版)
「ユスティニアヌス1世」の記事における「異教徒迫害」の解説
ユスティニアヌスの宗教政策は帝国の統一は宗教の統一を完全に前提しているという信念の反映であり、そしてその信仰は彼にとっては明確にオルトドクス(正教会)のみであった。勅法彙纂は私生活での祭儀を含む多神教の完全な禁止を命じる二つの法令を含んでおり、これらの条文は熱心に実行された。同時代史料(ヨハネス・マララス、テオファネス、エフェソスのヨハネス)には上流階級の人々へのものを含む厳しい迫害が述べられている。 529年にアテネのアカデメイアがユスティニアヌスの命令によって国家の管理下に置かれた。このヘレニズム教育機関の事実上の閉鎖がおそらく最も有名な事件であろう。多神教は積極的に弾圧された。小アジアだけで7万人の多神教徒が改宗したとエフェソスのヨハネスは述べている。ドン川流域に居住するヘルリ族、フン族、カフカスのアブハジア族、タザニ族といった多くの人々もキリスト教を受け入れた。 リビア砂漠のアウギリアにおけるアメン神崇拝は廃止され、そして同じことがナイル川第一瀑布のフィラエ島でのイシス神崇拝の残滓でも起こった。長老ジュリアンと主教ロンギヌスがナバテア王国での布教を行い、そしてユスティニアヌスはエジプトから主教をイエメンへ派遣して同地のキリスト教の強化に努めている。 ユダヤ人もまた市民権を制限され、そして宗教上の恩恵を脅かされただけでなく、皇帝はシナゴーグ内部の事柄にも介入し、一時的にだが礼拝の際にヘブライ語を用いることを禁じた。反抗者は肉体的な処罰や追放そして財産の没収で脅された。ベリサリウスのヴァンダル戦役で抵抗したボリウムのユダヤ人たちはキリスト教の受容を強いられ、シナゴーグは教会になっている。 皇帝はキリスト教への改宗に抵抗して暴動を繰り返すサマリア人に悩まされていた。皇帝は厳しい勅令で彼らに対抗したが、治世の晩年に近くなるまでサマリアでのキリスト教徒への攻撃を防ぐことができなかった。マニ教徒もまた厳しい迫害を受け、追放や処刑が行われた。コンスタンティノープルでは、少なくないマニ教徒が厳しい宗教裁判の後に皇帝の御前で火刑や水責めなどの手段で処刑されている。
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