町のイメージ・周辺環境・環境保持
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 11:02 UTC 版)
「田園調布」の記事における「町のイメージ・周辺環境・環境保持」の解説
開発当初は日本の都市に新たに出現した中堅層向けの住宅地であったが、田園調布に居住しこの街の開発を推進した、渋沢栄一の子渋沢秀雄によると「私は田園調布の西側に半円のエトワール型を取り入れてもらった。この分譲地のサイト・プランを依頼した矢部金太郎君に注文をつけたのである」とエトワール型の道路を造り街路樹を植え、広場と公園を整備し、庭を広くとり緑地の一部とし、街全体を庭園のようにするなど、良好な住宅環境であったことから次第に評価が高まった。また国分寺崖線の良好な地盤の上にある事から、関東大震災後に都心から多くの人が移住し、関東大震災後から都心で被災した富裕層が次々に移り住むようになった。 開発当初からの駅西側に広がる扇状に整備された区画一体は、イチョウの並木と相まって高級住宅街としての趣を備えている。地元自治会としては1926年(大正15年)に設立された「田園調布会」があり、住宅の新改築に際しては厳しい制限を求め、環境保全に努めている。大田区役所及び田園調布会によれば、田園調布が「日本で初めて庭園都市(ガーデンシティー)として計画的に開発され分譲された地域」であるとされている。 対比される兵庫県芦屋市六麓荘町は1928年(昭和3年)から、お屋敷町として数万坪が開発されたが、田園調布では、田園都市株式会社により街全体を庭園、つまり庭園都市(ガーデンシティー)にすることを目的に、約30万坪(約100万平方メートル)が開発されており、開発コンセプトは全く異なっている。なお田園調布も、当初は旧制大学や旧制高等学校を卒業し、工場(企業)に勤める中堅層を販売の対象にしていた。 東急東横線・目黒線が通る多摩川駅の東側、田園調布一丁目に、約3万平方メートルの広さの田園調布せせらぎ公園(旧多摩川園遊園地の一部)があり、多摩川駅の西側から多摩川の河川敷との間、一丁目と四丁目に約6万6千平方メートルの広さの多摩川台公園が、そして三丁目には大正時代末期からある宝来公園があり、第二種風致地区による建築制限と相まって、良好な住環境が整っている。 田園調布一丁目、二丁目の主要区画道路には桜並木が植えられ、かつて学校の始業式の季節には満開の桜が花のトンネルのようであった。現在ではその多くが老木となり、最盛期よりも減ってはいるが、開花期には美しい花を咲かせている。 戦後には、長嶋茂雄など著名人が多く住み、1980年代には星セント・ルイスのギャグのネタ「田園調布に家が建つ」にもなった。
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