田村丸座礁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 15:35 UTC 版)
1913年(大正2年)1月22日、青森を13時に出航した田村丸は、北東の暴風雪による視界不良で針路を誤り、17時30分頃、泉沢村 更木磯の沖720mの暗礁に座礁。座礁と同時に非常汽笛と煙火信号を繰り返し発し、これにより現地沿岸住民は連絡船遭難らしいと知ったが北東風強く救助船出せず、19時頃田村丸と判明し、住民の知らせを受けた泉沢郵便局長が20時7分、函館郵便局へ「連絡船田村丸は当区更木に座礁、救助不可能」と打電、函館郵便局から鉄道院函館運輸事務所へは電話でその旨伝えられ、22時40分、小蒸気船牛若丸(34トン)が現地に急派された。現地では消防夫の中から決死隊を編成し、22時、ようやく田村丸と連絡がつき、翌23日2時30分までに乗客全員の上陸を完了させた。23日は天候回復しており、救援の比羅夫丸、富士丸、新古宇丸が満潮を利用して田村丸を離礁させたが、船底損傷あり浸水多量で、推進器の損傷もあり、排水ポンプを使用しながら比羅夫丸に曳航され、8時に現地を出発し11時函館着、直ちに入渠となった。なお、上陸した乗客は第二阪鶴丸に乗船し、23日10時現地前浜を出航し、乗員乗客に犠牲者はなかった。 船底外板自体に切裂はなかったが、鋼板の継ぎ目に破損がありそこかの浸水であった。変形した外板、肋骨、床板は新替え修理となった。なお当時は連絡船にも青森・函館両桟橋にも無線電信設備はなく、1920年(大正9年)7月10日に、青函間船車連絡輸送の安全と、本州北海道間の鉄道業務用通信の疎通を図るため、青森、函館に海岸局、比羅夫丸、田村丸に船舶局が開設された。
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