産地の飛躍とフィロキセラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/26 19:03 UTC 版)
「カリフォルニアワイン」の記事における「産地の飛躍とフィロキセラ」の解説
1861年には南北戦争が勃発したが、この頃にはカリフォルニア産ワインが東部でも販売されるようになった。1869年には大陸横断鉄道が全通し、合衆国東部との経済活動が活発化。ニューヨークの商人によってカリフォルニア産ワインがヨーロッパに輸出され、ヨーロッパでも一定の評価を得た。大陸横断鉄道全通からの10年間でオーストラリアや東アジアにもカリフォルニア産ワインが輸出されるようになった。 1873年にはカリフォルニア全体で300億本のブドウの樹が栽培されており、3年後の1876年には430億本と劇的な伸びを見せた。1870年代半ばにはソノマ郡がカリフォルニア最大のワイン産地となり、ソノマ郡の背後にはロサンゼルス郡が続いた。1880年代にはナパに800ヘクタールの、ロサンゼルスには4,000ヘクタールのブドウ畑があった。 1860年代にフランスやヨーロッパの他産地を荒らしていたフィロキセラは、1870年代後半になるとカリフォルニアにも蔓延した。ヨーロッパに比べると被害は穏やかであり、生産量が激減していたヨーロッパに向けて多くのカリフォルニア産ワインが輸出された。小説家のロバート・スティーヴンソンは1883年の短編『Sliverado Squatters』の中で、「ボルドーは消え、ローヌはアラビアの砂漠となり、シャトー・ヌフは死に絶えた。(中略)草木の神、パンだけでなく、酒の神、バッカスも死んだ」と書き、世界のブドウ栽培の未来が「カリフォルニアとオーストラリアで決まる」と書いた。 先に蔓延したヨーロッパではフィロキセラからの復興を試みる試行錯誤が続けられており、フィロキセラに耐性のあるアメリカ産の台木に接ぎ木する復興法が発見されていた。1880年代に設立されたカリフォルニア州立ブドウ栽培学会とカリフォルニア大学ブドウ栽培学研究所もフィロキセラ撲滅の研究を推し進めた。これらの対策によってカリフォルニア州のワイン産業はすぐに立ち直ることができ、新たなブドウ品種の植え付けを進める機会を利用した。1900年までに州内のブドウ畑に約300品種が植えられ、約800のワイナリーにブドウが供給された。 北アメリカのブドウ畑でもっとも恐れられている病害はフィロキセラではなくピアス病であり、1880年代の初発生時には、南カリフォルニアのブドウ畑をほぼ壊滅させた。ピアス病はその後も断続的に発生しているが、現在まで有効な治療法は発見されていない。 1889年のパリ国際見本市にはカリフォルニア産ワインの生産者が招待され、スティルワイン、ブランデー、スパークリングワインの各部門で計34の賞を受賞。特にナパ・ヴァレーの生産者は4個の金賞を含む20の賞を受賞した。1893年の大恐慌では金融業界が大混乱に陥り、ワイン消費量の減少と実業家のワイン業界からの撤退につながった。1900年のパリ万国博覧会でもカリフォルニア産ワインが多くの賞を受賞した。 1906年4月18日にはサンフランシスコ地震が起こり、サンフランシスコにあるワイン倉庫は壊滅状態となった。ボトルや樽に深刻な破損の被害が出て、サンフランシスコだけで1億1400万リットルが流出した。禁酒法以前にはカリフォルニア州全体で1億リットル以上のワインを生産していた。
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