生物の研究・観察
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 15:24 UTC 版)
「ビアトリクス・ポター」の記事における「生物の研究・観察」の解説
ポターは幼いころから自分の部屋でペットを飼い、動物たちを観察しスケッチに残してきた。時には死んだ動物を解剖したり剥製にして骨格を観察することすらあった。博物館に行き化石のスケッチも多く残したが、ポターが特に興味を惹かれたのは菌類、キノコであった。当時のイギリスでは各家庭に顕微鏡が存在するほど、一般市民の間で博物学の大流行が起きていた。女性の高等教育はまだ一般的ではなく、ようやくその必要性が認められはじめた時代であったが、女性がキノコの観察やスケッチを行うのはそれほど珍しいことではなかった。ポターはキノコの精緻なスケッチを描き続け、叔父にあたる化学者ヘンリー・ロスコーの計らいにより、ついにはキュー王立植物園で自由に観察・研究できるようになった。他の研究者もポターを歓迎していたが、ポターが胞子の培養に成功すると態度は突然冷たくなっていった。アマチュアとしての研究ならば女性であっても認められていたが、大多数の専門家はポターのようなアマチュア研究者が自分たちの領域に入り込むことを疎ましく思っていた。王立植物園から疎外されたポターは、ロスコーの勧めもあって1897年に「ハラタケ属の胞子発生について―ミス・ヘレン・B・ポター」と題した論文をロンドン・リンネ学会に提出した。しかし女性が学会に参加することは認められず、論文は植物園副園長が代理で読み上げた。一説にはタイトルだけしか読み上げられなかったともいわれている。ポターは日記にその無念さを書き残している。ポターはその後もキノコの研究を続けたが、やがて研究からは遠ざかっていった。『ピーターラビットの野帳』の著者、アン・スチーブンソン・ホッブスは1900年以降にはキノコがスケッチにほとんど登場していないと指摘している。もし、こうした事件が起こらなければポターは研究者として名を残したかもしれず、ピーターラビットも生まれなかったという者もいる。彼女が残した絵は、死後の1967年に発行された『路傍と森林の菌類 (Wayside and woodland Fungi) 』に挿画として使われている。1997年の4月にリンネ学会は、性差別があったことを公式に謝罪した。
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