琉球政府時代
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1952年に発足した琉球政府では工務局の初代局長に就任。 1956年、当時の比嘉秀平主席の元で第3代行政副主席(現在の副知事に相当)に就任したが、翌57年10月に比嘉が軍用地問題に起因する闘争の解決に終われる最中に急死。 次期主席ポストを見据えた後継者争いでは松岡政保や長嶺秋夫らと琉球民主党の総裁を巡り争いを繰り広げたが米国民政府は主席公選を拒否、同党出身ではない当時那覇市長だった当間重剛が第2代行政主席に任命されると副主席だった神村は「主席が代われば、私も当然代わるべきである。」とし任期満了を前に辞表を提出したが拒否された。琉球民主党の当時の政治的思惑などにも巻き込まれ結局、翌年12月末まで副主席に留任することとなった。後任には当時熊本で弁護士をしていた大田政作(後の行政主席)が就任した。
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琉球政府時代
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帰郷直後、池原貞雄の勧めで、沖縄県立辺土名高等学校で生物の教師となるが、1947年(昭和22年)9月に退官した。その後、沖縄民政府の農務部に入り、技師として茶の栽培や製造の指導に従事した。 1952年(昭和27年)に琉球政府が発足すると、経済局農産課の課長代理に就任する。植物防疫や肥料検査、アメリカ人向けの野菜栽培の奨励、八重山移住した農家の指導、パイナップル栽培の振興などを仕事とした。 1957年(昭和33年)、経済局林務課長に着任する。「全琉球緑化推進運動」の計画立案と実施に取り組む。この運動で、日本本土から苗木、沖縄人が多く移民したブラジル、ハワイなどから種子や金品の寄付を受けた。 1964年(昭和39年)、経済局次長に就任、翌1965年(昭和40年)には経済局農林部長に就任した。 1964年(昭和39年)、琉球政府が計画実行したボリビア移民の入植したオキナワ移住地で開催された、入植十周年記念式典に参加するため、小波蔵政光行政副主席に随行し、ボリビアなど南アメリカ諸国を訪問。この時、ボリビアからトックリキワタやジャカランダ(紫雲木)の種子を持ち帰っている。 1967年(昭和42年)、琉球政府を辞し、大衆金融公庫の理事に就任する。1972年(昭和47年)、沖縄の本土復帰による大衆金融公庫の発展解消に合わせて、理事を辞職した。
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