現在の場所への移転、そして発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 02:57 UTC 版)
「浦江飯店」の記事における「現在の場所への移転、そして発展」の解説
1858年の2月、リチャーズの雑貨店、ホテル、レストランはチャールズ・ウィルスの土地である呉淞江(蘇州河)の北岸、すなわち現在の場所に移転した。このホテルは2階建ての東インド(英語版)様式であった。1859年にはリチャーズ・ホテルからアスター・ハウス・ホテルと改名した。一方で中国名「礼査飯店」はおよそ100年後の1959年まで残ることとなる。 その後ホテルの所有者は何度か代わり、1876年には拡張工事が行われる。この改装によってアスター・ハウス・ホテルは4棟からなる煉瓦造り、ネオルネッサンス様式のホテルとして生まれ変わった。1880年代の頭には中国で初めて電気が通った建物となり、初めて水道が通った建物となった。ホテルの評価もあがり、1880年代後半にはシンガポールのラッフルズ・ホテルと比較されるまでになっていた。 1889年にはホテル裏手の土地を取得、再び大規模な拡張が始まった。そして1890年代にはアスター・ハウス・ホテルは上海に暮らす外国人の社交の中心であり、名声は世界的なものとなっていた。1897年11月5日には中国で初めての舞踏会がこのホテルで開かれ、西太后の60歳の誕生日が祝われた。1900年の時点では上海で初めてのファースト・クラス・ホテル、東洋随一のホテルと称されるまでになっていた。 1901年、この時のオーナーであるオーギュスト・ヴァーノンは株式会社アスター・ハウス・カンパニーを香港に設立した。ヴァーノンはこの年に地権者からホテルのあるブロックをまるっと借り上げた。そこに新しく別館を作り、全体で300室あるホテルへと成長させる計画を立てたが、夢半ばでヴァーノンは体調を悪くし引退を余儀なくされた。 1906年の7月には元イギリス海軍艦長で日本郵船の艦長も務め、横浜グランドホテルのアソシエイト・マネージャーであったフレデリック・デービスがアスター・ハウス・ホテルのマネージャーに就任している。 1907年にホテルのマネージャーがウォルター・ブローエンに変わると、アスターホテルの改装と別館建設計画が持ち上がる。メインの3棟のデザインはデイビス・アンド・トーマス(Davies & Thomas)が担当し、新古典主義 バロック様式へと生まれ変わることになる。別館のデザインはブレナン・アトキンソンとアーサー・ダラスが担当した。 1908年から改築、増設工事が始まったが、順調にはいかず、予定を6ヵ月遅延した。さらには再オープンを3ヵ月後に控えた1910年の9月にはマネージャーのウォルター・ブローエンがホテルの運営資金を横領し姿をくらました。後に日本の長崎市よりブローエンの目撃情報が寄せられるが、逮捕には至らなかった。 この時期の改装により、ほぼ現在の浦江飯店のデザインとなった。
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