現在の城郭跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 07:35 UTC 版)
現在の多聞山城の跡地には、当時を思い起こさせるものはほとんど残っていない。本丸部分は若草中学校が建っており本丸の長さは140メートル、最大幅110メートルあり、発掘調査から元々この多聞山は平坦で、大規模な削平工事はなかったとみられている。また城跡の諸所でより石材の抜き取り跡がみられ、これらを集積して積み上げた遺構もあり、天正7年に多聞城の石材は筒井城に移築されたが、これらの集石材か、または本丸の斜面を石垣で固めてありそれを崩して取り去り持ち去ったのか、定かではない。土塁から外は今も土のままの急斜面で、石垣があったとしても撤去により崩落するほど大規模な高石垣は築かれなかったと見られる。また校舎と若草中学校グランドの間には大堀切があり、多聞山と善勝寺山を分断する城郭になっている。 中学正門近くにある斜面/裾は石垣で固めていた可能性がある。 本丸跡にある若草中学校の校舎 大堀切跡を上部から撮影 大堀切跡を下部より撮影 若草中学校の西側は若草中学校の敷地とはならなかったため、曲輪面が比較的残っている。この北西から西にかけて高さ1.5メートルの土塁があり、角の高さは3メートル、幅2メートルの壇状をしており、ここが櫓跡の一つだとしている。 写真左側が校舎敷地外/段差がある 本丸の曲輪面が残っている 佐保山東陵の頭頂部/本丸の一部と想定 多聞山城の北側斜面/多聞城諸国古城之図の空堀跡 仁正皇太后陵は多聞山の南に突き出しており、現在聖武天皇陵ともに、陵墓への立ち入りは禁止されている。そのような中『日本城郭大系』では奈良文化財研究所作成の一千分の一『調整地形図』により、仁正皇太后陵の西南隅に土塁と櫓台があったと想定している。またこの西側を切り落とし聖武天皇陵との間に堀切を作り、本丸と分断してあり、この堀切からの道と虎口を見張っていたとしている。聖武天皇陵には、ここにも段状の帯曲輪のような部分が観察でき、出曲輪の役割を果たしていたのではないかと想定する。両陵墓ともに多聞山城の城郭の一部であったとしている。 聖武天皇陵の西側/帯曲輪を想定 佐保山南陵 佐保山東陵の拝礼 佐保山南陵の石碑
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