犯罪と逮捕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/26 22:21 UTC 版)
「ピエール・フランソワ・ラスネール」の記事における「犯罪と逮捕」の解説
ピエールは、社会に対して憎悪を抱いていた。家族、学校、長続きしなかった様々な職業、働く意思があるのに働き口が見つからなかった求職期間といったあらゆる場所で彼は不正と偽善を感じていた。自分をこの不正と偽善の犠牲者であり、社会から常に迫害される受難者であるととらえていた。この受難に対して、自分はあらゆる手段を用いて報復する権利があるはずだと信じていた。また、彼は、社会の根本的な革命を志していた社会主義や共産主義に共感することができなかった。1830年代当時、共和派は社会的自由や平等や博愛の理想を掲げてパリやリヨンで蜂起し、勢力を拡大していた。しかし、ピエールは、彼らの革命は一部の策謀家だけを利することになり、人々の幸福の実現に何ら有効性を持たないと考えていた。こうして、社会基盤と、特権的階級である「金持ち連中」に対する「抗議」を行うため、「社会の災厄」(『回想録』p104)となることを決意した。 彼がまずしたことは、彼の抗議を実行するため、協力者を得て犯罪集団を組織することだった。協力者を探すにあたり、フランソワ・ヴィドックの『ヴィドック回想録』(1827)を読み、犯罪の協力者は犯罪者の中から選ぶことが適当であると考えた。この書物で職業的犯罪者集団の組織性や掟についておおよそのイメージをつかみ、また、監獄の中で犯罪者と触れ合って彼らの習俗や隠語を熟知しようとした。そのためにピエールは、貸し馬車屋で借りた一台の馬車を、露見するようにわざと売り払った。望み通り彼は逮捕され、1年間の懲役を宣告されてポワシー監獄に収監された。この懲役期間に彼は犯罪者の手口と隠語を習得し、また、後に腹心の手下となるアヴリル、シャルドン、バトンと知り合った。 かくして、窃盗・詐欺・手形偽造・殺人などの犯罪を重ねることになった。ピエールは手形偽造の容疑でボーヌで逮捕された。このとき、ジャコブ・レヴィという偽名を使っていたが、パリ警視庁治安局の主任警部であった仏: ルイス・カンレールにより、以前、強盗殺人と殺人未遂を犯したピエールであると看破された。1845年3月にピエールの身柄はパリのコンシェルジュリー監獄に移された。そこでカンレールと、彼の上司に当たるアラール治安局長による尋問を受けた。ピエールははじめ無罪を主張していたが、共に逮捕されたイポリット・フランソワとピエール=ビクター・アヴリルが彼を密告したことから、それまでに犯した犯罪を自白した。
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