爾来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 09:16 UTC 版)
今日に至るまで木曾一族の祈願所であるは勿論、所縁ある武将の崇敬もあつく、観応年間、管領上杉憲顕社外の田を寄進し、後、上杉謙信は武運長久の誓書を奉り、白井城主長尾氏も又厚く崇敬したという。徳川幕府となっても、領主の尊崇は変わらず、社地の御修復と称して、前橋城主は代々公費を以って営繕をしていたが、寛政元年六月、火災にあった時、領主松平氏は武州川越にあり移封の説もあった為、造営の沙汰も遷延してしまった。よって同六年、氏子信徒相謀って社殿を建築した。文化七年、前領主酒井氏は播州姫路から重臣を遣わし、鉾一口、及び金若干を献じた。同十年、更に従四位下雅楽頭忠道(酒井忠道)は自筆の神号額その他を献納した。前橋城主松平氏も又崇敬厚く、入城の当時、たまたま拝殿再建の際であったので金二十両を寄進し、落成式の後、明治三年、従五位大和守直方社参して、弓矢を奉納し、続いて伯爵松平基則は信徒として弦料金若干を献じた。 同二十九年六月、県社に列せられた。 同三十一年九月、貞宮多喜子内親王より幣帛料に掛物一幅を添え、木曽桧七株下賜。 同三十四年八月、北白川宮能久親王妃、成久王、輝久王及び二荒芳之参拝、幣帛料金二千疋納め、かつ社頭に若松一対を手植えした。 同三十五年八月、有栖川宮威仁親王妃慰子、戴仁親王妃実枝子より幣帛料二千疋。 同三十六年、有栖川宮威仁より幣帛料四千疋の進納があった。 明治三十六年九月、社域に宮城遥拝所設置のことが明治天皇の耳に達し内意を以て黒田待従を差遣して、更に三十九年十二月には神饌幣帛料供進指定となった。 大正十三年八月、山階宮菊麿王妃常子参拝、幣帛料一千疋納め、かつ桧一対を手植えした。 昭和十七年六月、大東亜戦争御祈念のため、昭和天皇より金二十円を下賜された。 戦争終了後、昭和二十一年二月、法令改正により県社の社格改正され、神社本庁の所管となる。
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