漁業開発と係争の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 06:06 UTC 版)
久六島の状況についての農商務省の安岡百樹の報告に、技手の山本由方が関心を持った。1887年(明治20年)、山本は深浦港に巡回したが、時期的に海が荒れており久六島への渡航は不可能であるといわれ帰京した。 1890年(明治23年)、福島県出身で能代で水産業を営んでいた新妻助左衛門は、久六島探検を決意した。新妻は、千葉県安房郡から招いた潜水夫と機械運転手など、新しい漁具と漁夫を率いていた。7月22日能代を出航した新妻は、23日西風に流されて艫作に上陸、そこで新妻は久六島の伝説と方向や位置を漁民から聞き、午後6時に艫作を再出航して久六島に到着し、27日にわたって大いに漁獲を得た。新妻は午後6時に能代に向けて出航したものの、風に流されて深浦村に上陸、旅館嶋川で久六島の魚影の豊富さと、新漁法と新漁具を村人に話した。漁具は千葉県安房郡より潜水夫と機械運転手を取り寄せたものである。以後、深浦の村人たちも古い認識を改めるようになった。以後、秋田や青森の漁民が久六島を訪れるようになった。 1890年(明治23年)8月28日午前2時、山本由方技手や青森県初代水産試験場長の斉藤惣太郎らや村の有力者、計14人が約10mの川崎型の船で久六島を探検・調査をして、29日午前1時半に深浦港に帰った。その後、新妻助左衛門が密漁をしているという話が拡がり、青森県の東奥日報でも報道され、青森県と秋田県の漁業紛争に発展した。「岩崎町史」は東奥日報紙の記事をまとめたもので、「伊豆園茶話」は秋田魁新報紙の記事をまとめたものである。 1891年(明治24年)9月29日、一旦は青森県が単独で久六島の漁業権を得るものの、抗議を受けてそれが取り消される事件もあった。青森県側が地籍編入をおこなったが、翌年に内務・農商務大臣の訓令により、潮の干満に水没するもので区域編入の対象とならない」として編入手続が取消されたものである。明治時代には秋田県側の方が盛んに出漁しており、1893年(明治26年)6月には青森・秋田の漁民による騒乱が発生した。 青森県と秋田県の間で、久六島の帰属(地籍)と漁業権をめぐる係争は続き、日本の漁業紛争の中でも著名な案件のひとつとされていた。このため、久六島がどこの都道府県にも属していない事態が第二次世界大戦後まで続くこととなった。
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