清水寺の本願と清水寺参詣曼荼羅とは? わかりやすく解説

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清水寺の本願と清水寺参詣曼荼羅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 09:21 UTC 版)

清水寺参詣曼荼羅」の記事における「清水寺の本願と清水寺参詣曼荼羅」の解説

表「清水寺参詣曼荼羅作例所蔵員数材質・形状寸法センチメートル清水寺 一幅 紙本著色・掛幅装 縦173.2×横159.5 市神神社滋賀中嶋一幅 紙本著色 縦168.5×横176.8 清水寺参詣曼荼羅は、今日2つ作例伝わっており、所蔵者の名をもとに清水寺本および中嶋家本呼ばれている(表「清水寺参詣曼荼羅作例参照)。両者とも制作年代工房絵師)を明確に伝え史料を欠くが、構図おおよそ一致し前者16世紀半ば後者16世紀後半の作と推定されている。 社寺参詣曼荼羅本願には深いかかわり認めるのが通説であり、作例清水寺成就院伝来することや図像解釈から、清水寺参詣曼荼羅作成主体本願たる成就院であると位置づけられる。制作年代である16世紀は、清水寺における本願確立期であった清水寺参詣曼荼羅作成時期遡る15世紀末、清水寺応仁の乱兵火によって焼失し文明元年1469年〉)、文明16年6月本堂再建された。この再建のための勧進従事した勧進僧願阿弥は、清水寺入寺以前に、四条五条橋修復再興南禅寺仏殿再建援助としての百貫寄進寛正飢饉における施行といった活動従事していた。こうした活動全面的請負かつ臨時的活動という中世勧進活動であった願阿弥活動にはまた、室町幕府権力幕府要人との結びつき勧進聖集団利用といった特徴があり、それは清水寺再興事業においても引き続き認められるものであった願阿弥再興事業全面的請負事業として担い寺家公家から再興ひとえに願阿弥の力によるもの認識されてはいたものの、あくまでその権限奉加造営修繕範囲とどまり寺本来の活動である仏事には関与しえなかった。願阿弥自身再興完遂見届けることなく文明18年1486年)に死去するが、彼の後継者たち清水寺境内成就院引き続き活動拠点とし、やがて15世紀末には本願成就院呼ばれるうになる後継者たちの寺外での活動その後も遅い時期まで中世勧進特徴残し続けるが、寺内においては本願院田村堂)に霊場縁起にかかわる霊物安置して公武祈祷携わるだけでなく、独自の堂舎として朝倉堂を建立護持して清水寺本堂と同じ本尊祀るなど、16世紀初めに縁起仏事両面わたって清水寺宗教的領域への進出図り清水寺縁起との結びつきと自らの存在正統性主張するようになっていた。こうした変化は、勧進僧集めた財貨全て堂舎伽藍造営修繕支出するではなく勧進僧独自の活動例えば独自の堂舎建立護持用いられるようになったことを意味し中世勧進から本願への変質時期にあった願阿弥活動近世にいたる清水寺における勧進活動出発点だったのである

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