海外からの経済援助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 05:41 UTC 版)
「アリー・アブドゥッラー・サーレハの政策」の記事における「海外からの経済援助」の解説
イエメンへの海外からの経済援助の始まりは、南北イエメン統一以前の1970年代にさかのぼる。第一次石油危機で石油価格が高騰し、潤沢なオイルマネーを手に入れたサウジアラビアが、外交政策の一環として経済援助を活用し始めたことから、イエメンは多額の経済援助を受けるようになった。1970から80年代の旧北イエメンには明確な経済政策が存在しなかったことや、旧南イエメンにおいて1980年代半ばに指導部内での権力闘争が起き、それと同時にソ連からの援助が削減されたことから、イエメン全土で経済開発は停滞していた。そのような経済状況の中でイエメンの主要な財源は、サウジアラビアを始めとする海外からの経済援助と、後述する出稼ぎの二本柱であった。この状況は南北イエメンが統一しても変わることはなかった。しかし、1990年に湾岸戦争が起きた際イエメンは「親イラク姿勢」をとったことで、サウジアラビアを始めとする諸外国からの経済援助を打ち切られてしまった。湾岸戦争終結後、欧米諸国からの援助は比較的早く復活したもののアラブ諸国、特にGCC諸国からの援助は再開せず、イエメンの経済状況は悪化し、1994年に内戦が起きる一因となった。1994年に内戦が起きた際には、GCC諸国がビード副大統領の率いる「南軍」を実質的に支持したため、サーレハ政権が勝利する形で内戦を終結させた後も、イエメンとGCC諸国との関係は悪化する一方だった。またサーレハ政権は国連安保理や欧米諸国による停戦勧告・決議を無視、もしくは受け入れながらも違反することを繰り返して内戦を終結させたため、アメリカとの関係も悪化し、経済援助を停止された。海外からの経済援助の打ち切りに加えて内戦自体のダメージもあり、イエメン経済は統一以来どん底の状況に陥った。このような流れの中で、内戦終結後のイエメンは世銀・IMFの指導の下で「改革プログラム」を開始する。このプログラムの内容については第二項で記述するが、各種補助金や公務員の削減などを行うものであった。サーレハ政権が世銀・IMFの指導を受け入れた背景には、内戦中にサウジアラビアとの関係が悪化し、内戦後も関係が改善しなかったことがある。サーレハ政権としては、1970~80年代のようにサウジアラビアとGCC諸国からの経済援助に頼りきることができなくなり、新たな援助のドナーとして世銀・IMF、またそれらに連なる欧米諸国を選んだと考えられる。 イエメンが「改革プログラム」を開始したことを受けて、欧米諸国も経済援助を再開し始める。1996年にデン・ハーグで行われた対イエメン援助のドナー国会合において、5億ドルの経済援助が決定された。2000年代に入ると、第三節でも述べたようにサーレハ政権はアメリカの「テロとの戦い」を支持する姿勢を見せ、軍事面・経済面での援助を受けるようになった。 このように、時代によってドナー国は変わりつつも、サーレハ政権は海外からの経済援助を絶えず受け続けてきた。イエメンという国家の主要な収入源が海外からの経済援助と出稼ぎ労働者による送金であることを考えると、いかに経済援助を安定して受け続けるかということは、サーレハ政権の経済政策の中でも最重要課題の一つであったことは間違いない。
※この「海外からの経済援助」の解説は、「アリー・アブドゥッラー・サーレハの政策」の解説の一部です。
「海外からの経済援助」を含む「アリー・アブドゥッラー・サーレハの政策」の記事については、「アリー・アブドゥッラー・サーレハの政策」の概要を参照ください。
- 海外からの経済援助のページへのリンク