海外から見た古武道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 15:55 UTC 版)
中里介山の著書『日本武術神妙記(続)』(1936年)には、以下の文章が引用されている。 和寇の盛んなりし頃、明将の記文のうちに曰く、倭奴刀を揮うこと神の若し、人これを望めば輒ち懼れて走る、その長ずる所の者は刀法のみ、その鳥嘴銃の類これ猶お我兵の如きなり、弓矢の習い猶おこれ我兵の如く、この外殊に称するに足るものなし、唯だ倭性殺を好む、一家一刀を蓄えざるものなく、童にしてこれを習い壮にしてこれに精し。 — 『揮刀如神』(明朝) 著した人物の詳細については明記されていないが、明時代の中国人から見た当時の日本人とその武術について記されている。現代語訳としては、「日本人の刀術はまるで神の如しである。我々の明兵は彼らを見れば皆身がすくみ逃げ腰になる。 刀術に優れているが、刀術だけでなく飛び道具の扱いも我が銃兵と互角である。 弓の扱いも我が弓兵と互角、そのほかあらゆる兵科と比べて不足が見つからない。 本当に日本人は戦闘民族である。その家には刀を持たぬものは無く、 子供の頃から剣術を鍛えられはじめ、壮年に至れば手に負えなくなる」。 日本人の特に習練するものは武術なり。男子はすべて十二歳にして刀剣を佩び、これより後は夜間休憩する時の外は腰間の秋水を脱せず、寝に就くの時と雖も、尚枕頭にこれを安置して、睡眠中と雖も曾つて武事を忘れざるを示す。武器は剣、短剣、小銃あり、弓箭あり。その剣は精練を極めて鋭利なること、これを以ってヨーロッパの剣を両断するとも刀口なお疵痕を残さずと云う程なり。日本人の風習かくの如くに武を尊べば、彼等は刀剣の装飾に深くその意を注ぎ、これを室内にも拝列して第一の修飾となす。 — ジャン・クラッセ(江戸時代初期) 一方こちらは、フランス人宣教師のジャン・クラッセ(英語版)(1618 - 1692)から見た当時の日本人とその武術について記されている。 いずれも、日本刀に対して賛辞を贈り、また日本人が「武」を好む人種であるとも記している。ただしここで両者が述べている日本人とは、明らかに武士のことであり、武士の生活様式を垣間見たことで、日本人が皆このような生活を送っていると勘違いしたようである(それにしても、「日本人=戦いを好む」という同様の記述は戦前まで多数見られていた)。 リュミエール社から稲畑勝太郎が連れてきた撮影技師、コンスタン・ジレルは、1897年、京都市岡崎の博覧会館前にて、当時の伝承者が一刀流(小野派一刀流とする情報もあるが、所作は北辰一刀流に近い)の形を披露している様子を映像に記録した。これは日本武術を収めた映像として最古に近く、京都を写した最古の映像でもある(著作権は消失しているため、YouTubeなどで閲覧可能)。
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