沿革 光浄と鉄斎とは? わかりやすく解説

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沿革 光浄と鉄斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/28 16:33 UTC 版)

鉄斎美術館」の記事における「沿革 光浄と鉄斎」の解説

坂本光浄は同寺の興隆尽くした人物だったが、これと同じくらい懸命に取り組んだのは、鉄斎作品集集だった。光浄が入山した当時宝塚はようやく宝塚歌劇団出来たくらいで、光浄はこの地に宗教と文化の花を咲かせたい願っていた。そんな折、信徒総代鉄斎親交のあった西宮酒造家・辰馬悦叟から、「世の中流行動かされず、常に無欲である人格者鉄斎作品集めること」を勧められる。そして、辰馬から贈られた「山水図」がコレクション第一号となる。 光浄は修行傍ら鉄斎研究作品収集努め大正11年1923年ツテ辿って京都鉄斎訪ねた直接鉄斎にあった光浄は、更に鉄斎人格芸術惚れ込んでいった。やがては鉄斎清澄寺に招くため、客殿百錬堂」を建て、同時に茶室春光庵」も設けられた。百錬鉄斎後年の号に因み春光鉄斎の妻・はる(春子)と、自身の名から取った名付けである。鉄斎は既に高齢だったため、清澄寺来訪は叶わなかったが、代わりに最晩年作品12点贈られ、光浄が書の手本を乞うと、鉄斎は『前赤壁賦書』三冊本を届けた。この『前赤壁賦書』は、鉄斎三日三晩書き上げ装丁鉄斎自身の手よる。鉄斎亡くなる三日前、光浄へ感謝の手紙を書いており、感激した光浄は鉄斎顕彰新たに決意する。 光浄はその後鉄斎芸術公開振興のため、世界各地巡回展行いフランスギメ美術館バチカン美術館アメリカボストン美術館カーネギー研究所モスクワ東洋文化博物館東京国立博物館東京国立近代美術館などに作品寄贈、その総数65点になる。これで鉄斎芸術世界広く発信することは出来たが、未だ鉄斎芸術本質伝えることは出来ていないと感じ昭和41年1966年研究委員会発足翌年には鉄斎研究所設立研究誌『鉄斎研究』発行目指す。この第1号が出る直前、光浄は95歳で遷化したが、この企画次代にも引き継がれた(後述)。その間昭和50年鉄斎美術館開館。更に平成11年1999年美術館併設され新収庫が完成し、現在に至っている。

※この「沿革 光浄と鉄斎」の解説は、「鉄斎美術館」の解説の一部です。
「沿革 光浄と鉄斎」を含む「鉄斎美術館」の記事については、「鉄斎美術館」の概要を参照ください。

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