水力発電の試み
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1911年(明治44年)1月、松江電灯は株主総会にて水力発電の件を議決した。その内容は、資本金50万円で新会社「松江水力電気株式会社」を設立し、松江電灯はこれに事業を譲渡する、というものであった。ただしその後新会社設立は取り止められ、同年3月、松江電灯自身が資本金を6万円から50万円へと増資した。この増資には各地で電気事業の起業にかかわる大阪の川北電気企業社(社長川北栄夫)が参入し、川北が新株8800株のうち5000株を引き受け、織原を抑えて筆頭株主となった(10月野口遵とともに取締役就任)。 1911年5月、松江電灯は松江市の南方仁多郡三沢村(現・奥出雲町)にて斐伊川の水利権を獲得し、8月より川北電気企業社が一切を請け負う形で発電所工事に着手した。この「北原発電所」は1912年(大正元年)9月に竣工する。据え付けられた発電設備は、エッシャーウイス製フランシス水車を原動機とするシーメンス製三相交流発電機(周波数60ヘルツ)1台であった。同年12月、松江変電所とを結ぶ送電線の完成を待って出力920キロワットで北原発電所は運転を開始した。これにより松江への供給力が増大したほか、同時に木次・大東両変電所も完成したことで木次町・大東町(現・雲南市)などへの供給も始まった。翌年末には安濃郡大田町(現・大田市)にも大田変電所が新設されている。 北原発電所工事中の1912年5月の料金改定で電灯料金は10燭灯月額50銭・16燭灯70銭に引き下げられた(ただし翌年5銭ずつ値上げ)。この値下げと供給力・供給区域の拡大により、同年末の電灯数は前年比2.5倍の約1万7600灯へと一挙に増加し、翌1913年末には約2万3400灯まで伸長する。また中止されていた電力供給も北原発電所の運転開始で再開され、大口需要家として石見銀山(大森鉱山)にも送電するようになった。 加えて1912年5月23日、松江電灯は山陰電気と供給区域に関する協定を締結した。その内容は、山陰電気が松江市内と隣接する八束郡津田村・乃木村への電灯・電力供給を行わないことを確約するとともに、松江電灯はその対価として向こう20年間にわたって半年ごとに1125円ずつ、総額4万5000円を支払うというものであった。この協定により、松江電灯は山陰電気の松江進出を阻止し、松江における供給の独占に成功した。
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