水力発電への転換
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東海電気と合併するまで電源を火力発電に依存していた名古屋電灯は、日露戦争後になって水力発電への進出を計画し、木曽川水系について調査の準備に着手した。しかしこの動きを察知したシーメンス・シュッケルトの関係者から1906年2月に長良川発電所の計画が持ち込まれると、長良川開発の方を優先することとなった。 長良川開発は先に旧岩村藩士の小林重正が構想したもので、岐阜県武儀郡洲原村立花(現・美濃市立花)にて出力3,000kWの発電所建設が計画されていた。小林の計画は水利権を得て1898年(明治31年)に「岐阜水力電気株式会社」の事業許可を得るところまで進んだが、そこから先は実現せず、1904年に事業許可が失効した。こうした中、小林の事業計画に参画していたシーメンス・シュッケルト日本法人(シーメンス・シュッケルト電気株式会社)元社員の野口遵が名古屋電灯に対し計画を引き継ぐよう勧誘したのである。1907年5月、名古屋電灯は株主総会にて長良川発電所建設の承認を得た。 発電所工事中、市内鶴舞公園において愛知県主催による第10回関西府県連合共進会の開催が決定。これに伴い名古屋電灯では共進会会場内外のイルミネーション点灯をすべて請け負うことになった。長良川発電所の完成が共進会成功の前提となったため県は発電所を共進会開催までに完成させるように要請し、県知事や名古屋市長が工事の進捗状況を視察するなど圧力をかけたという。名古屋電灯側も社運を賭して工事を急ぎ、共進会開催前の2日前に工事をすべて終了、開催前日の1910年(明治43年)3月15日に長良川発電所からの送電を開始した。発電所出力は4,200kWである。 こうして長良川発電所は完成したが、工事中の資金調達は必ずしも順調ではなかった。1907年3月に一挙に400万円を増資して資本金を525万円とする決議をしていたが、これの払込金徴収が日露戦争後の不況により難航したのが原因である。翌1908年7月には保険会社からの50万円借り入れを株主総会で決定し、その後も発電所建設の進捗にあわせて借り入れを繰り返した。こうした借入金急増に伴う利子負担増加の結果、支出が拡大して配当率が1906年上期の年率14パーセントから1908年上期には年率12パーセントへと低下し、連動して株価も下落した。業績低下を受けて株主の不満が高まり、「革新会」と称する一部株主から経営陣の責任を追及する動きが生じた。
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