関西水力電気の設立
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1905年11月29日、水力発電事業を起こしその電気を奈良市とその周辺へと供給する目的で関西水力電気株式会社が設立された。会社所在地は奈良市高天町12番屋敷で、設立時の資本金は15万円である。発起人は森久兵衛(奈良電灯監査役、大阪鰻谷の畳表商「泉久」)、加納由兵衛(大阪鰻谷の質商)、寺田元吉(寺田甚与茂の弟・岸和田の実業家)、田中善助(伊賀上野の実業家・巌倉水電社長)ら計7名。発起人のうち田中善助の伝記によると、奈良電灯社長佐野正道が巌倉水電の発電所を訪れ田中に奈良への送電や奈良電灯の事業売却を持ち掛けたことが会社設立の発端という。 関西水力電気は設立と同時に奈良電灯から事業を継承した(ただし逓信省からの事業譲受認可は同年12月28日付)。奈良電灯は翌11月30日付で解散している。継承時の成績は需要家数約250戸、電灯数700灯前後であった。電源は奈良電灯時代のままの火力発電であり採算があわないため水力発電所の早期建設を目指すが、会社設立に際して立案されていた山辺郡波多野村(現・山添村)に木津川支流名張川を用いる出力300キロワットの発電所を建設するという計画は、水上交通に支障をきたすという地元の反対で不可能になってしまった。代替地の調査の結果、名張川よりも下流側で木津川に合流する布目川に着目し、1906年(明治39年)3月に京都府へ水利権を申請する。だが布目川も競願者があり水利権が容易に許可されないため再び方針を転じ、布目川の西を流れる白砂川での発電計画へ変更した。白砂川では地元の賛同も得て奈良県からも早期に水利権を許可された。また布目川についても競願者の撤収によって水利権を得た。 1907年(明治40年)9月、添上郡狭川村(現・奈良市)に出力200キロワットの白砂川発電所が完成し、奈良市と郡山町(現・大和郡山市)への送電が始まった。火力発電から水力発電への転換に伴って電灯料金を大幅に値下げしたため需要は急増し、200キロワットの発電力を消化する見込みとなったため、京都府相楽郡笠置村(現・笠置町)の布目川発電所(出力300キロワット)についても建設を急ぎ、翌1908年(明治41年)11月に完成させた。完成後、奈良・郡山以外にも1909年(明治42年)2月に櫟本町・丹波市町(現・天理市)、翌年7月にも田原本町などへ供給を拡張。そのため1910年10月に布目川発電所を増設(出力600キロワットに)している。
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