水元役について
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神田上水の水元役に内田六次郎及びその子孫が1770年(明和7年)に罷免されるまで勤めている。水元役は他に水元町人・水役などとも呼称されていた。 神田上水の水元役を任ぜられた内田六次郎は井之頭池を見立てたといわれ、大久保藤五郎忠行とともに神田上水を開設した人物に挙げられている。上水の開設者の家が代々水元役を勤めるというのは神田上水だけではなく、玉川上水・三田上水・千川上水でも同様になっていた。彼らは上水の請負人として武家や町方から水銀を徴収していただけではなく上水の管理全般に渡って広い権利を持っていた。 内田家が神田上水の水元役としてどのような役割を担ってきたかについて、『上水記』第八巻に詳しく記述されている。 願人 (内田)茂十郎 右之者相願は同人先祖六次郎儀慶長年中御入国之砌神田上水開発者之者にて 台徳院(秀忠)様御成先にて頂戴物いたし其上水元池普請成就之節上水末々迄過不足無之行届候様出精可仕旨之御黒印并水元役と申役名被下置其後水道橋辺にて弐千坪余之屋敷拝領致候処萬治年中小石川并江戸川御普請ニ付当時之水道橋辺御用地に相成右拝領屋敷茂其節差上候て無足ニ付追年困窮いたす 水元役難相勤間御扶持方并拝領地之儀旦帯刀御免之儀内々相願候得共御沙汰無之享保十七子年五月石黒左兵衛源津八郎右衛門懸り之節呼出之上御当地上水開発之ものに付武家町在より水銀料取立是を以相勤候様本多伊予守江窺之上申渡候由依之為冥加水戸殿屋敷内小石川大下水之上渡樋之儀 公儀御入用之場所を右水銀之内を以相仕立申度旨相願候処願之通被仰渡其砌上水相掛り候武家之分江茂十郎儀上水開発之者に候処無是にて水元役相勤来候儀に付高百石に付銀弐部弐厘宛可相渡旨左兵衛八郎右衛門より相触右水銀致受納無滞御用相勤 (下略) 『上水記』第八巻 内田家は先祖六次郎の功績により、2代将軍徳川秀忠から神田上水の水元役を代々勤めるように任ぜられたという。その後、水道橋の近くに2000坪の屋敷を拝領したが、万治年間に屋敷を返上し、無給で水元役を勤めているために生活に困ったという。 内田家が水銀の徴収を始めたのが1732年(享保17年)からであることがわかる。享保17年以前に水銀の徴収を請け負っていたかについては定かではない。享保17年以降、徴収した水銀を生活の一部に充てていたことが1777年(安永6年)に内田茂十郎が提出した復職願に記されている。それ以前は無給で水元役を勤めているため生活が苦しかったということなので、享保17年より前に水銀の徴収をしていたとは考えにくい。あるいは玉川上水の水元役である両玉川家(玉川上水の開削の指揮をとった玉川兄弟の子孫)のように、上水の修理に携わってきたかもしれない。だが、それを明確にするだけの史料が欠けている以上確証はない。 1770年(明和7年)に内田茂十郎は水元役を罷免されたわけだが、なぜ罷免されたかについては明記されていない。 8代将軍徳川吉宗による享保の改革以降、幕府は上水支配の改革を積極的に行ってきた。その結果、江戸の上水は幕府直営の色合いが濃くなった。幕府は上水の開発者の子孫が上水管理に関わるということが疎ましくなった。両玉川家が1739年(元文4年)に玉川上水水元役を罷免されており、このことと同様に内田家に非があろうが無かろうが、水元役という請負人を廃止しようとした傾向がある。内田茂十郎の失脚は個人的理由からではなく、この時期の多くの水道改革によって幕府より締め出されたと思われる。更に両玉川家の罷免から内田茂十郎の罷免までのおよそ約30年間の月日はあるが、幕府は長い時間をかけて水元役を廃止したと考察される。 内田茂十郎の罷免により、水元役は事実上廃止された。これにより神田上水は完全に幕府が支配することとなった
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