民謡『関の五本松』
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木の来歴と伐採の節ですでに述べたとおり、古くに失われたマツについては「早くに枯死した」という説と「当地の領主が通行の邪魔になるとして伐採させた」という2つの説がある。民謡『関の五本松』の成立にまつわる話では、後者をとっている。 古くから航路の目標として親しまれていた5本のマツであったが、あるとき美保神社に参拝する当地の領主に供をしていた者が持つ長槍が、そのうち1本に引っかかった。そのため、通行の邪魔になり、また眺望を遮るものとして1本が伐採された。土地の人々はマツの運命を嘆き、せめてもの抗議として『リキヤ節』という唄の調べにのせて「関の五本松一本伐りゃ四本(しほん)、あとは伐られぬ夫婦(めおと)松 ショコ ショコホイノ マツホイ」と歌った。 『リキヤ節』は別題を『焼香場(しょこば)のお井戸』ともいい、もともとは香川県仲多度郡多度津町山階地区にそびえる天霧(あまぎり)山の山頂にある焼香場の井戸について詠んだ作業唄であったという。もともとの歌詞は、「しょこばのお井戸のような深い私の心ふられて茶にされちゃショコ、ショコホイノ、マツホイ」というものであった。その唄をため池造りの土木技術者たちが各地に広め、美保関にも伝わった。リキヤ節はやがて花柳界にも広まって三味線の伴奏がついたお座敷唄へと変化し、「関の五本松」の歌詞で夫婦和合の意味をも込めて歌われるようになったのが民謡『関の五本松』の始まりであると伝えられている。 小泉八雲は著書『日本瞥見記』(英題:Glimpses of unfamiliar Japan、1894年刊)で、伯耆から隠岐への旅行中に船上から4本のマツを見たことを記述している。小泉は『日本瞥見記』の第23章「伯耆から隠岐へ」でマツと民謡について言及した。小泉は友人とともに、境港から隠岐行きの船に乗っていた。船上で友人は山上にある4本のマツを指して、笑いながらも『関の五本松』を歌ってくれた。小泉は失われたマツについて「嵐のために根こそぎにされた」という説をとり、「出雲のさる歌よみが、残った四本の松について、いま友人がうたった歌をつくったのである」と書いた。小泉はさらに、美保関の町で小さな盃と徳利に四本のマツの絵と金文字で『関の五本松』の歌詞を書き添えた土産物を見て「美しい」と評していた。
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