民主党政権・総務大臣
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2009年の第45回衆議院議員総選挙では大阪12区で連合大阪の支援を受け、自民党の北川に比例復活すら許さず約4万票差をつけて破り、国政に復帰した。総選挙後、衆議院環境委員長に就任。国政復帰後は民主党幹事長の小沢一郎に接近し、「反小沢」の色彩が強い「七奉行の会」からは距離を置いていた。 2010年6月、鳩山由紀夫の首相辞任に伴う民主党代表選挙に「世代交代」「党内の結束」を訴え出馬した。代表選では一新会の三井辨雄が選挙対策本部長に就任し、推薦人には樋高剛ら小沢の側近が名を連ね、実質的に小沢グループの支援を受けたが、財務大臣であった菅直人に敗れた(菅:291票、樽床:129票)。なお代表選出馬にあたり、「七奉行の会」からの「卒業」を明らかにした。 菅代表の下で民主党国会対策委員長に起用される。同年9月の民主党代表選挙では、執行部の一員ながら小沢一郎に代表選への出馬を促し、小沢への接近を一層強める。小沢は代表選に出馬したが、菅に敗れた。党役員人事により国対委員長を離任し、衆議院国家基本政策委員長に就任した。同年10月、30人の国会議員が参加した青山会(樽床グループ)を発足させる。 2011年の地方統一選挙で大阪府議会、大阪市会、堺市議会における民主党の議席がほぼ半減する敗北を喫したため、民主党大阪府連代表を引責辞任した。同年の民主党代表選挙に一時立候補を検討したが、最終的には出馬を見送った。2011年8月31日、民主党代表に選出された野田佳彦は参議院議員の輿石東を幹事長に起用し、樽床は輿石を補佐するために新設された役職である幹事長代行に起用された。 2012年9月28日、党役員人事により民主党幹事長代行を退任し(後任は安住淳)、同年10月1日に発足した野田第3次改造内閣で総務大臣と内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・地域主権推進)に任命され、初入閣した。また、「地域の活性化を総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」を担当する国務大臣も兼務した。 同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、大阪12区で自民党の北川に約3万票差で敗れ、得票数も北川・みんなの党の石井竜馬に次ぐ3位で、比例復活もならず落選した。2014年12月の第47回衆議院議員総選挙でも大阪12区から出馬したが、再び北川に敗れ、比例復活もならず落選した。
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