毘沙門堂門跡とは? わかりやすく解説

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毘沙門堂

(毘沙門堂門跡 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/27 23:08 UTC 版)

毘沙門堂
本殿
所在地 京都府京都市山科区安朱稲荷山町18
位置 北緯35度0分5.8秒 東経135度49分7.9秒 / 北緯35.001611度 東経135.818861度 / 35.001611; 135.818861座標: 北緯35度0分5.8秒 東経135度49分7.9秒 / 北緯35.001611度 東経135.818861度 / 35.001611; 135.818861
山号 護法山
院号 安国院
宗旨 天台宗
寺格 京都五ケ室門跡[1]
本尊 毘沙門天
創建年 伝・大宝3年(703年
開山 伝・行基
中興 天海公海
正式名 護法山安國院出雲寺
別称 山科毘沙門堂
毘沙門堂門跡
札所等 神仏霊場巡拝の道第127番(京都第47番)
文化財 紙本墨書洞院公定日記ほか(重要文化財
仁王門、本堂、宸殿(市指定有形文化財
公式サイト 毘沙門堂
法人番号 6130005001917
毘沙門堂
毘沙門堂 (京都市)
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参道
宸殿

毘沙門堂(びしゃもんどう)は、京都市山科区にある天台宗寺院山号は護法山。本尊毘沙門天。正式名は護法山安国院出雲寺。天台宗京都五門跡の一つであり、山科毘沙門堂毘沙門堂門跡とも呼ばれる。

歴史

統合前の歴史(1195年以前)

寺伝によれば、毘沙門堂の前身の出雲寺文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)に行基が開いたという[2]

平親範置文(『洞院部類記』)という史料によると、建久6年(1195年)、平親範は平等寺尊重寺護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を統合し、出雲路に五間堂3棟を建てたという(「五間堂」とは間口の柱間が5つある仏堂の意)。こうしてできた寺は出雲寺の寺籍を継ぎ、建久6年(1195年)に塔ノ垣にあった旧出雲寺の地に護法山出雲寺として再興され、最澄(伝教大師)自刻の毘沙門天像を本尊とした。なお、比叡山延暦寺根本中堂に倣い、西に平等寺、東に尊重寺、中心に護法寺を据える配置としている[3]

出雲寺

前身寺院である出雲寺は、京都市上京区にある相国寺の北、上御霊神社の付近にあったと推定される。付近からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、行基の開基であるかどうかは別としても、この付近に平安京遷都以前にさかのぼる寺院があったことがわかる。また、一帯には現在も「出雲路」の地名が残されている。この出雲寺は平安時代末期には荒廃していたことが『今昔物語集』の記述などから伺われる。また、中世には出雲寺はの名所として知られ、藤原定家の日記『明月記』や、『沙石集』(無住道暁編)にも言及されている。

平等寺

置文によれば、平等寺は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖である葛原親王786年 - 853年)の創建で、太秦(京都市右京区)に所在。

尊重寺

尊重寺は平親信945年 - 1017年)の創建で、五辻(京都市上京区)に所在。

護法寺

護法寺は平親範の父・平範家が伏見(京都市伏見区)に創建したもので、応保元年(1161年)北石蔵(京都市左京区岩倉)に移転するが、長寛元年(1163年)に焼失し、最澄自作と伝える毘沙門天の本尊だけが大原(京都市左京区大原)の来迎院に移されていたという。

統合後の歴史(1195年以降)

室町時代応仁元年(1467年)、応仁の乱によって焼失するが、文明元年(1469年)には再建される。しかし、元亀2年(1571年)再び焼失した。

江戸時代初頭の慶長年間(1596年 - 1615年)に至り、天台宗の僧で徳川家康の側近であった天海によって復興が開始された。江戸幕府は山科の安祥寺(9世紀創建の真言宗寺院)の寺領の一部を出雲寺に与え、現在地に移転・復興される。天海没後はその弟子の公海が引き継ぎ、寛文5年(1665年)に完成した。また、毘沙門天を祀ることから出雲寺は毘沙門堂と呼ばれるようになった。

後西天皇皇子の公弁法親王1669年 - 1716年)は当寺で受戒し、晩年には毘沙門堂に隠棲しているが、その際には父である後西天皇の死後に御所から勅使門、霊殿、宸殿を拝領し毘沙門堂に移築している。

以後、門跡寺院(皇族貴族が住持を務める格式の高い寺院の称)となり、天台宗京都五門跡の一つ「毘沙門堂門跡」と称されるようになった。寺領は1,700石である。

境内

  • 本殿(京都市指定有形文化財) - 寛文6年(1666年)に建立された。 向唐破風造の門や堂の周囲の透塀など京都の仏堂建築ではあまり見られない。本尊・毘沙門天像(秘仏)を安置している。
  • 唐門(京都市指定有形文化財)
  • 霊殿 - 永禄6年(1563年)に御所の御霊屋として建立された。元禄年間(1688年 - 1704年)に移築。
  • 宸殿(京都市指定有形文化財) - 元禄6年(1693年)に御所より移築。狩野益信筆の障壁画がある。
  • 玄関(京都市指定有形文化財)
  • 台処
  • 庫裏
  • 庭園「晩翠園」 - 江戸時代初期の池泉回遊式庭園
  • 観音堂
  • 般若桜 - シダレザクラ[4]
  • 薬医門
  • 勅使門(京都市指定有形文化財) - 元禄6年(1693年)に御所より移築。
  • 鐘楼(京都市指定有形文化財)
  • 経蔵
  • 高台弁財天 - 豊臣秀吉の母大政所大坂城内に建立したものを、大坂夏の陣後に北政所高台寺に移した弁財天。公弁法親王により毘沙門堂に遷座された。
  • 山王社
  • 仁王門(京都市指定有形文化財) - 仁王像は寛文5年(1665年)造。
  • あか水 - 名水。天台密教の仏事に使う。飲料科(許可制)。
  • 護法山神
  • 双林院 - 塔頭大聖歓喜天を祀る。
  • 龍華院 - 塔頭。

文化財

重要文化財

上記の他、大阪府和泉市久保惣記念美術館所蔵の国宝・青磁鳳凰耳花生(せいじほうおうみみはないけ)はもと毘沙門堂にあったものである。

京都市指定有形文化財

  • 毘沙門堂 10棟(建造物) - 1985年(昭和60年)6月1日に霊殿以外の指定、2022年(令和4年)3月31日に霊殿を追加指定[6]
    • 本堂
    • 唐門
    • 仁王門
    • 鐘楼
    • 宸殿
    • 使者の間
    • 玄関
    • 霊殿
    • 勅使門
    • 薬医門

年中行事

  • 1月1 - 3日修正会護摩、
  • 1月初寅、参詣人で賑わう[7]
  • 2月3日節分会
  • 4月観桜会
  • 8月16日盂蘭盆会
  • 8月24日地蔵盆会
  • 10月13日放生会
  • 11月23日千燈会、紅葉祭り
  • 12月31日大晦日除夜の鐘

前後の札所

神仏霊場巡拝の道
126 醍醐寺 - 127 毘沙門堂 - 128 浄瑠璃寺

交通アクセス

以下の鉄道駅から北へ、徒歩約15-20分。

参考文献

関連項目

脚注

  1. ^ 天台宗について - 主な寺院 天台宗
  2. ^ 京都府の歴史散歩(中). 山川出版社. (2011年8月20日). p. 273 
  3. ^ 京都古社寺辞典. 吉川弘文館編集部. (2010/5/10). p. 278 
  4. ^ 京都の穴場桜スポットの山科! 毘沙門堂の桜は無料で見られる!”. ORICON NEWS (2018年2月22日). 2018年3月21日閲覧。
  5. ^ a b c 京都古社寺辞典. 吉川弘文館編集部. (2010/5/10). p. 278 
  6. ^ 令和4年3月31日京都市公報より京都市教育委員会告示第12号 (PDF) (リンクは京都市ホームページ)。
  7. ^ 日本歴史地名体系第27巻 京都市の地名、p342. 平凡社. (1979年9月20日) 
  8. ^ 京都市

外部リンク




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6
葉上照澄千日回峰行大行満大阿闍梨、大僧正。東京帝国大学を卒業、大正大学教授をしていたが、敗戦を機に決然として比叡山にのぼり千日回峰行を満行する。祖賢師とは義兄弟の契りを結ぶ仲だった。葉上師は祖賢師を「300年に1人の人材、天海大僧正以来の人物」と評価する。勧修寺信忍千日回峰行大行満大阿闍梨、大僧正。祖賢大阿闍梨の御所土足参内に貢献した元伯爵。葉上照澄師に続き千日回峰行を満行叡南覚照前赤山禅院住職、千日回峰行大行満大阿闍梨、大僧正。1927年生まれ。1960年、33歳のときに千日回峰行を満行。「赤山の御前さま」と呼ばれる。祖賢師に師事する小僧の筆頭であった。叡南覚範毘沙門堂門跡第61世門主、大僧正。天台教学の最高位「探題」に就任。世界連邦日本仏教徒協議会会長。藤光賢曼殊院門跡門主、大僧正。佐賀県神埼郡吉野ヶ里町・金乘院住職。村上光田信州善光寺長臈、大僧正。比叡山延暦寺東塔院住職、信州善光寺福生院住職。最澄が東山道の難所である神坂峠に開いた布施屋広拯院を復興し、信濃比叡広拯院を開山した。他、比叡山の諸堂の仏像を数体寄進し、復興に寄与している。堀澤祖門三千院門跡門主、大僧正。前叡山学院院長。京都大学学生時代に比叡山にのぼり、仏道をきわめたいと中退し弟子となる。「侍真」として十二年籠山行を満行。これにより明治以来途絶えていた本格的な十二年籠山比丘が復興した。中野英賢比叡山延暦寺観樹院住職、大僧正。堀澤祖門師に続いて十二年籠山行を満行。東塔の復興新築に寄与。叡南俊照
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