歴史背景・モデル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 08:56 UTC 版)
「鹿鳴館 (戯曲)」の記事における「歴史背景・モデル」の解説
明治維新で武士は廃されたが、本来の華族(旧大名家や旧公家から成る諸侯華族)ではない将軍・大名の一族や、功労者(主に下級武士出身)にも国家への勲功により、1883年(明治16年)に爵位が与えられ、新華族となった。また、旧大名は維新後数年で、公卿は十数年で政治の実務からは外されており、1884年(明治17年)の内閣制度発足後に閣僚となったのは、功労者出身の新華族とこれに続く官僚、軍人のみであった。 『鹿鳴館』ではこういった華族、新華族、閣僚らが主要登場人物となり、実在、架空とりまぜて造形されているが、井上馨と井上武子夫人が主催した天長節夜会当日の1886年(明治19年)11月3日に、この作品内で起こるような事件は起こっていない。なお、外務大臣・影山悠敏伯爵と、「自由党」の壮士・清原永之輔のモデルはそれぞれ、井上馨と後藤象二郎であることは、三島の「創作ノート」から見て取れる。後藤象二郎はこの時期征韓論に敗れて野から自由民権運動を指揮していたが、それ以前は井上馨より早く参議(閣僚である卿より上席)に就いており、また後には伯爵に叙されて閣僚も歴任している。このように二人の関係が、権力者と草の根の反体制活動家ではなく、あくまで二人の大物政治家の政争である点は、劇中の影山と清原の関係にも投影されている。なお、井上と後藤は下級武士出身者が多い明治維新関係者の中では、比較的富裕な中級武士出身者であった(後藤は最終的には実質的な家老にまでのぼっている)点も共通している。 また、明治期にあっては、首相たちを含む政治家・貴顕たちは、芸者を愛人としただけでなく、正妻とすることも一般的に行われていた。朝子=影山伯爵夫人もその一人で、これは隠すべきことでも恥ずべきことでもなかった。三島の「創作ノート」には、「伊藤夫人、陸奥夫人―中心人物」と記されており、朝子のモデルは、井上武子よりも、伊藤博文の夫人・伊藤梅子の方から造形されたのではないかという見方も一部にはある。井上武子が芸者であったかは不明だが、伊藤梅子が元芸者「小梅」であり、陸奥宗光の夫人・陸奥亮子も元芸者「小鈴」であったことはよく知られている。
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