歴史的な土地柄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:45 UTC 版)
江藤淳は、晩年の著書『南州残影』の取材で、蓮田の故郷の地・熊本県鹿本郡植木町(現・熊本市北区)の歴史の地・田原坂を訪れ、蓮田が三島由紀夫の才を評価していたことに触れ、2人を西郷隆盛に発する自裁と国士の系譜にあると試論している。 また、植木町の西南には鐙田杵築神社があり、この神社を尊崇していた林桜園は、熊本神風連の師であった。「敬神、尊皇、攘夷」、「神事が本、現事(政治)は末」という林桜園の思想を実践した神風連に関心を持った蓮田が、神風連参謀の一員・石原運四郎の息子で『神風連血涙史』の著者・石原醜男から教えを受け、感銘を記していたことを北影雄幸は紹介している。 かういふ清純な“攘夷”とは、日本の無比の歴史を受け、守り、伝へる心なのだが、今日もこの思想は理解されること少なく、遠巻きにして、ただ頑迷固陋偏狭、といふ罵言のみを投げつける者がもつぱらである。これは、国学者たちが次々と伝承してきた根本思想で、その上、最も忠実に信じて、最後まで世間の目には狂態めくまで守り通したのである。 — 蓮田善明「神風連のこころ」 妥協を許さなかった性格の蓮田は「興国百首」を連載中の雑誌編集においても、水戸天狗党の盟主・武田耕雲斎の和歌「かなしきて寝ぬる鎧の袖の上におもひぞつもる越のしら雪」を載せることに反対した。武田耕雲斎は尊王攘夷の志士であるため、掲載を拒む大きな理由はないと思われたが、蓮田によれば、耕雲斎は千余りの兵を率いて行軍を続けながら「最後の一戦を避けた」として、いかに寒さと飢えに苦難させられようが、戦いを避け敵に降伏するなど、武士の為すべきことではないと断じ、耕雲斎の歌の掲載を断乎として拒否した。
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