歴史的な合同会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 07:45 UTC 版)
「アメリカ合衆国議会合同会議」の記事における「歴史的な合同会議」の解説
フランクリン・D・ローズヴェルトの真珠湾演説(音声のみ) 初の合同会議は、第1議会(英語版)中の1789年4月6日、ニューヨーク市フェデラル・ホールで行われた選挙人投票の集計である。 公式記録に残る初の合同会議は、第43議会(英語版)中の1874年12月18日、ワシントンD.C.で行われたハワイ王国カラカウア国王歓迎式典である。国王は当時、ひどい風邪で声を嗄らしていたため演説ができず、元連邦下院議員でハワイの首相兼最高裁判所長官のエリシャ・ハント・アレン(英語版)が代読した。 真珠湾攻撃の翌日に当たる1941年12月8日、フランクリン・D・ローズヴェルト大統領は合同会議にて「汚名演説」を行った。 その1時間足らず後に、議会は日本に対して正式な宣戦布告を発し、合衆国は第二次世界大戦に正式参戦した。この演説は、20世紀で最も著名な米国の政治演説の1つとされている。 公民権運動のさなか、アラバマ州セルマからモンゴメリーに向かった「選挙権を求める大行進」において、非武装のデモ隊を警官隊が襲う凄惨な場面がテレビニュースで全米に流れた(「血の日曜日事件」)。事態を重く見たリンドン・ジョンソン大統領は、投票権法の早期制定を決意。法案審議を前にした1965年3月15日、合同会議においてリンドン・ジョンソン大統領は、公民権運動の象徴である「われらは勝利する(We Shall Overcome)」という言葉を用いた演説を行った(「アメリカの約束 (The American Promise)」)。 フィリピンのコラソン・C・アキノ大統領は、独裁者フェルディナンド・マルコスに反対する民衆反乱(1986年の「ピープル・パワー」革命)によって権力の座に押し上げられた7か月後の1986年9月18日、合同会議で演説した。1983年8月に殺害された、夫で野党指導者のベニグノ・S・アキノ・ジュニアを埋葬するためフィリピンに帰国して以来初の外国訪問であった。 2001年9月20日、ジョージ・W・ブッシュ大統領は同年9月11日におきたアメリカ同時多発テロ事件に応じて開かれた合同会議に先立ち演説を行い、現職のイギリス首相であったトニー・ブレアが出席しているのが確認できる。。また、通常の大統領演説では行政府の指定生存者に閣僚一名(稀に複数)のみが指名されるが、この時は閣僚に加えて副大統領も指名されており、議長席には下院議長と上院仮議長がついている。
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