武器つくるけむりが原爆忌の夜雲
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評 言 |
1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、長崎に原爆が投下された。爆心地は当時の地番で長崎市松山町171番地。雲の切れ間に見えた2つの三菱兵器工場(茂里町工場および大橋工場)の中間にある競技トラックを目がけて爆撃手が自動爆撃装置を作動。投下された原爆は、三菱兵器大橋兵器工場、三菱製鋼所、三菱造船所幸町工場、その他無数の中小工場や民家の密集する浦上の上空約500メートルで炸裂したという。破壊された武器工場からも煙が立ち、空を曇らせていたかもしれない。 1972年(昭和47年)12月15日発行のこの句集は、作句時期により、初心期、新人期、第二新人期、渋滞期、第二初心期と分かれているが、この句は新人期のものであり、1957年(昭和32年)から1960年(昭和35年)の間に作句されたものである。 原爆投下から十数年後の原爆忌。8月9日の長崎の夜空を覆う雲を見て、ひょっとしたらこの雲も源は武器工場の煙ではないかという思いが治人の胸によぎったのではないだろうか。1950年から1953年まで続く朝鮮戦争。1960年から1975年まで続くベトナム戦争。世界のどこかで戦争が続く中での原爆忌の平和を祈る心に、容赦なく暗雲垂れこめる空―戦争が無くならない世界があることに、やり場のない憤りや不安を感じていたのかもしれない。 治人は戦後シベリアでの俘虜生活を経験している。本格的に腰を据えて俳句に取り組んだのは1954年(昭和29年)頃という。「海程」の創刊同人であり、地元では「土曜」を主宰し多くの弟子を育てた。 この句は、昭和36年8月、長崎俳句協会により爆心地公園に建之された原爆句碑に、金子兜太、松尾あつゆきら11名の俳人とともに刻まれている。 |
評 者 |
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備 考 |
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