架橋計画と調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 06:50 UTC 版)
橋の必要性が高まっていたにもかかわらず、その後数十年にわたって公式な計画が立てられることはなかった。1920年、ミシガン州州道局の当時の局長は、マキノー海峡に浮動式のトンネルを造る案を支持していた。州政府に招かれたニューヨークのC・E・フォーラーは、マキノーシティの27km南東に位置するシボイガンからボイブラン島、ラウンド島、マキノー島の3つの島を中継してアッパー半島へと至る桁橋を架ける計画を打ち出した。 1923年、州政府は州道局に対し、マキノー海峡を渡るフェリーを復活させるように命じたが、1928年にはフェリーの運営費用が高騰したため、当時のミシガン州知事、フレッド・グリーンはマキノー海峡への架橋の採算性を調査するように命じた。州道局は架橋にかかるコストを3,000万ドルと算出し、採算が取れるという結果を出した。 1934年、ミシガン州政府はミシガン州マキノー海峡橋局(Mackinac Straits Bridge Authority of Michigan)を創設した。同局の目的は橋の採算性の調査、および債券発行による架橋のための資金調達であった。1930年代中盤、同局は2度にわたって連邦債の発行を試み、アメリカ陸軍工兵司令部および当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの後援も得ていたが、失敗に終わった。一方、1936年から1940年にかけて、橋のルートが選定され、ルート上では地質調査のためにボーリングが行われた。 初期の計画では、橋の上を通る道路は3車線で、その下を鉄道が通る道路・鉄道共用橋となる予定であった。また、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジのようにアンカーレイジを中央に置き、主塔3本の4径間吊橋となる予定であった。しかし、橋の中央部が海峡の最深部にあたっていたため、アンカーレイジをその下に沈めることは現実的であるとは考えられず、このデザインは不採用となった。 1939年から1941年にかけて、アッパー半島側から約1,200mのトラス橋部分が建設された。しかし第二次世界大戦のために資金調達が困難となり、橋の建設は一旦中断された。1947年には州政府によって海峡橋局が一旦解散された。海峡橋局はその3年後、1950年に再設され、同年6月にはプロジェクトのために技術者が集められた。翌1951年1月に技術者から出された報告書に従って、州政府は1952年4月30日、8,500万ドルの債券の発行を承認した。しかし1953年の債券市場が低調だったため、債券の発行はその後1年以上遅れた。
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