板垣退助遭難とは? わかりやすく解説

板垣退助遭難

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 07:01 UTC 版)

岐阜事件」の記事における「板垣退助遭難」の解説

1882年明治15年4月6日午後6時半頃、板垣帰途に就こうと中教院玄関階段下りるその時、「将来の賊」と叫びながら相原尚褧が、刃渡り9寸(約27センチメートル)の短刀振りかざし板垣襲い掛かる相原板垣の胸を狙い、左胸を刺す板垣相原腹部に肘で当身行い板垣呑敵流小具足柔術)を会得していた)怯ませるが、再び相原襲い掛かる板垣短刀持った手を押さえた際、短刀親指人差し指の間を負傷する二人もみ合うのに気づいた内藤魯一駆け寄り相原押さえ込むその場にいた者たちは第2の刺客警戒しつつ板垣連れ門前傘屋避難する通報受けた岐阜警察署から警察医派遣され診察をする。その結果、命に別状は無いが、左胸、右胸に各1か所、右手に2か所、左手に2か所、左頬に1か所の、計7か所に傷を負っていた。板垣は輿に乗せられ旅館戻り警察相原連行した夜になり、東京自由党本部板垣遭難連絡が入る。この時点では板垣殺されたという連絡であり、大石正巳は、後藤象二郎谷重喜その事伝える。怒った後藤象二郎直ち岐阜へ向かう用意をするが、板垣が無事という報告を受けると、自由党総代として谷重喜のみ岐阜へ向かう。又、知らせ受けた大阪中島信行幹部党員十数名、高知片岡健吉植木枝盛、その他隣の愛知県板垣故郷高知県からも自由党志士岐阜向かい立憲改進党大隈重信使い岐阜向かわせる各地民権主義者の行き来で、岐阜さながら革命前夜ようになったという。この状態は勅使到着まで続いた4月7日政府首脳にも板垣遭難連絡入り政府閣議中止山縣有朋明治天皇事件上奏すると、直ち勅使派遣決定する同日午前内藤魯一連絡受けた愛知県病院長後藤新平板垣治療の為に訪れる。当初、県当局板垣治療ためらったが、後藤自身去就をかけ治療急いだ板垣後藤新平政府からの刺客勘違いし会う事を断るが、まわりの者に説得され治療を受け正午過ぎに治療終える。その際板垣は「彼(後藤)を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。 正午過ぎ、翌日明治天皇勅使来訪との電報を受ける。一部自由党員は、刺客政府よるもの思い勅使追い返す事を訴えるが、板垣はこの事を咎め勅使受け入れる事を決める。その頃勅使来訪知らせ受けた岐阜県令が慌てて見舞いを送るが、板垣事件対し見て見ぬ振りをしていた事に怒り見舞いを断る。 4月12日明治天皇勅使到着御手元金300円を下賜する。 4月15日、傷が癒えた板垣は、岐阜から大阪へと出発する前日幹部達が岐阜演説会を開くと、板垣人気群衆3000人が集まった道中彦根懇親会開いた

※この「板垣退助遭難」の解説は、「岐阜事件」の解説の一部です。
「板垣退助遭難」を含む「岐阜事件」の記事については、「岐阜事件」の概要を参照ください。

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