板垣退助遭難
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1882年(明治15年)4月6日午後6時半頃、板垣は帰途に就こうと中教院の玄関の階段を下りる。その時、「将来の賊」と叫びながら相原尚褧が、刃渡り9寸(約27センチメートル)の短刀を振りかざし板垣に襲い掛かる。相原は板垣の胸を狙い、左胸を刺す。板垣は相原の腹部に肘で当身を行い(板垣は呑敵流小具足(柔術)を会得していた)怯ませるが、再び相原は襲い掛かる。板垣は短刀を持った手を押さえた際、短刀で親指と人差し指の間を負傷する。二人がもみ合うのに気づいた内藤魯一が駆け寄り、相原を押さえ込む。 その場にいた者たちは第2の刺客に警戒しつつ板垣を連れ、門前の傘屋に避難する。通報を受けた岐阜警察署から警察医が派遣され、診察をする。その結果、命に別状は無いが、左胸、右胸に各1か所、右手に2か所、左手に2か所、左頬に1か所の、計7か所に傷を負っていた。板垣は輿に乗せられ旅館に戻り、警察は相原を連行した。 夜になり、東京の自由党本部に板垣遭難の連絡が入る。この時点では板垣が殺されたという連絡であり、大石正巳は、後藤象二郎、谷重喜にその事を伝える。怒った後藤象二郎は直ちに岐阜へ向かう用意をするが、板垣が無事という報告を受けると、自由党総代として谷重喜のみ岐阜へ向かう。又、知らせを受けた大阪の中島信行ら幹部党員十数名、高知の片岡健吉、植木枝盛、その他隣の愛知県、板垣の故郷高知県からも自由党志士が岐阜に向かい、立憲改進党の大隈重信も使いを岐阜へ向かわせる。各地の民権主義者の行き来で、岐阜はさながら革命前夜のようになったという。この状態は勅使到着まで続いた。 4月7日、政府首脳にも板垣遭難の連絡が入り、政府は閣議を中止。山縣有朋は明治天皇に事件を上奏すると、直ちに勅使の派遣が決定する。同日午前、内藤魯一の連絡を受けた愛知県病院長後藤新平が板垣の治療の為に訪れる。当初、県当局は板垣の治療をためらったが、後藤は自身の去就をかけ治療に急いだ。板垣は後藤新平を政府からの刺客と勘違いし会う事を断るが、まわりの者に説得されて治療を受け正午過ぎに治療を終える。その際、板垣は「彼(後藤)を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。 正午過ぎ、翌日に明治天皇勅使来訪との電報を受ける。一部の自由党員は、刺客が政府によるものと思い、勅使を追い返す事を訴えるが、板垣はこの事を咎め、勅使を受け入れる事を決める。その頃、勅使来訪の知らせを受けた岐阜県令が慌てて見舞いを送るが、板垣は事件に対し見て見ぬ振りをしていた事に怒り、見舞いを断る。 4月12日、明治天皇の勅使が到着。御手元金300円を下賜する。 4月15日、傷が癒えた板垣は、岐阜から大阪へと出発する。前日、幹部達が岐阜で演説会を開くと、板垣人気で群衆3000人が集まった。道中彦根で懇親会を開いた。
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