東洋工業入社とサッカー
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1938年(昭和13年)、東洋工業へ入社、以降生産技術畑を歩む。 入社一年後(公式的には1938年)、自ら音頭をとって東洋工業蹴球部を同好会形式で創設、監督兼選手として活躍した。当時は呉海軍工廠が強く県大会ではいつもやられていた が、サッカーのためには日曜、祝日も返上した。サッカーに明け暮れたエピソードとして、山崎の子どもが小学生時(戦後の可能性が高い)の作文に「父はサッカーばかりして、一度も遊んでくれたことはありません」と書かれてしまったものがある。山崎が現役だった時代に獲得したタイトルの一つに、1941年(昭和16年)第8回中国実業団蹴球大会で優勝したものがある。 1943年(昭和18年)、太平洋戦争の戦況が厳しくなったこともあり蹴球部は休部となる。 1945年(昭和20年)8月6日、工作機工事事務所(現・品質保証部)内で原爆に遭遇。なお山崎が被爆者であるとする資料は不明。 1947年(昭和22年)蹴球部再開、その後は銭村健次・小畑実ら有力選手が入団、自身も監督兼任として現役で活躍した。1949年(昭和24年)には、実業団チームとして初の日本選手権(現在の天皇杯)に出場。蹴球部が力をつけ実業団のトップクラスとなり、会社の看板にもなったことで1951年(昭和26年)、現役を去り部長兼総監督となり、監督は小畑が引き継いだ。試合の遠征先ではベンチに入りマネージャーとして活躍した。1963年(昭和38年)、小畑が監督を退任し総監督になると、山崎は部長に就任する。1965年(昭和40年)から始まった日本サッカーリーグ(JSL)では東洋工業蹴球部部長として登録されている。
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