杉並区での騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 05:54 UTC 版)
都区懇では、選定された地区について建設が妥当であるかどうかなどについて協議が行われていたが、高井戸を含む各候補地で反対組織が作られて事態は膠着した。こうした中で1972年(昭和47年)12月に入り、東京都が年末年始のゴミ増加に対応するため都内8か所に一時的なゴミ集積所を設けようとしたところ、この一つとなった杉並区和田堀公園周辺の住民が工事を実力阻止する事件が1972年(昭和47年)12月16日に起きた。 この事件を受け、杉並区の住民がゴミ問題の解決に積極的ではないと見た江東区は、12月22日に江東区長の小松崎軍次が杉並区のゴミ搬入を江東区の道路で止めるという行動を起こした。東京都庁が「早急な集積所建設」を約束したため、同日昼に搬入阻止は解除されたが、一時集積所の建設が遅れた杉並区では収集されなかったゴミが集積所に積み上げられたままとなり、江東区の夢の島で起きていたように悪臭やハエが発生して地域の衛生が悪化した。このような状況はマスメディアに取り上げられ、全国にこの紛争の様子が映し出されることとなった。 高井戸地区を含む選定予定地区の住民が都区懇に含まれていなかったことから、翌1973年(昭和48年)5月15日には清掃工場の建設に反対する住民が会合に乱入して流会させる事件が起きた。これに江東区は再び反発し、翌5月16日に杉並区のゴミの搬入阻止を決定した。杉並区ではさらに5月21日にも反対派による流会が起きたため、江東区では翌5月22日に杉並区のゴミ搬入阻止が実行された。また江東区に協調した東京都清掃労働組合も、杉並区内でのゴミ収集をボイコットしたため収集が中止された。 この混乱を受けて、同1973年5月23日に都区懇は高井戸への工場建設を再決定し、9月中の解決を江東区に約束したが、規定された手続きを経なかったこともあって期日までに事態は進展しなかった。このため5月25日から阻止を中止していた江東区は、10月1日に公開質問状を再び送り、都全体のゴミを対象とした全面埋め立て阻止を示唆した。 東京都は都区懇からの答申を受け、改めて杉並区高井戸地区を清掃工場の用地に選定した。都の設けた最終期限の1973年11月5日までの回答を、杉並区の反対派は拒否し、美濃部亮吉は強制収用手続きの再開を決定し、東京都収用委員会に採決を求めた。これに対する土地収用法の収用手続き取り消し訴訟もあったが、東京地方裁判所から勧告が出され、1974年(昭和49年)11月21日に全面的な和解が成立した。 杉並清掃工場は1978年(昭和53年)に着工、1982年(昭和57年)12月に竣工・稼働した。杉並清掃工場が老朽化により2017年(平成29年)に建て替えられた際、新工場の敷地内に「東京ゴミ戦争」の歴史を後世に語り継ぐ資料館「東京ごみ戦争歴史みらい館」が開館した。
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