朴政権の対応
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朴正煕大統領は事件直後、駐韓アメリカ大使に「北の奴等が私を殺しにきた」「北を攻撃しなければならない。2日で平壌まで進める」と、憤りをあらわにした。事件を北朝鮮が謝罪しない場合は、報復攻撃を行うべきとの書簡をリンドン・B・ジョンソン大統領に送った。 ところが、直後の1月23日にプエブロ号事件が発生する。アメリカ軍は報復のために空母を派遣するが、すでにベトナム戦争を戦っている中で、新たに朝鮮半島で軍事行動を起こす余力が無く、また北朝鮮と同盟関係にあったソ連と直接戦争に至る可能性を考慮して、ジョンソンは外交交渉を選んだ。アメリカ軍の援助を受けられないと知った朴は、軍の北進を断念した。 しかし朴は「われわれは日夜、このようにやられてばかりいるのか。何か方法はないのか。報復する方法が」と北朝鮮への対抗策を求め、政権内部での発言力を強めたかった大韓民国中央情報部の金炯旭部長が、金日成暗殺部隊の創設を決意した。 これによって1968年4月に創設された空軍2325戦隊209派遣隊は、創設年月から通称「684部隊」と呼ばれ、青瓦台を襲撃した北朝鮮工作員の人数と同じ31人の隊員から構成された。部隊は仁川沖合の実尾島で訓練を受けることになったが、1970年以降南北融和の流れが加速したため、金日成の暗殺は現実的でなくなり、1971年に計画は撤回された。 完全に宙に浮いた存在となってしまった684部隊の待遇は悪化し、不満が増大した部隊員は1971年8月23日に叛乱を起こす。バスを乗っ取ってソウル市内に向けて進み、軍・警察との銃撃戦の末に自爆した(実尾島事件)。同事件は、後に『シルミド』として映画化されるなど、韓国国内で見直しが進んでいる。 襲撃未遂事件について伝える1月22日付「中央日報」 工作員が1月21日に身を潜めた、文殊峰と碑峰の間にある紗帽岩V字型洞窟には、工作員の人形が置かれている 韓国侵入時に非武装地帯・米軍2師団の鉄柵を切断する時に使用したペンチ 金新朝らが携帯したPPS短機関銃 金新朝らが携帯したRPG-43対戦車手榴弾 京畿道坡州市積城面沓谷里山55番地「敵軍墓地」にあるゲリラの墓 青瓦台襲撃未遂事件で被弾した松の木
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