有人宇宙飛行と月計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 01:10 UTC 版)
「アメリカ合衆国の宇宙開発」の記事における「有人宇宙飛行と月計画」の解説
この時期、アメリカは宇宙開発を強力に推進するための機構の必要性を実感し、航空全般の推進を行っていた国家航空諮問委員会(NACA)では宇宙技術に関する特別委員会が立ち上げられ、この組織は1958年10月1日付けでアメリカ航空宇宙局(NASA)となり、アメリカにおける非軍事の宇宙開発についてはすべてNASAが行うことになった。 ソ連はスプートニク2号に犬を乗せており、このことからも次に計画されるのは有人宇宙飛行であることは明らかであった。このためアメリカは当初弾道ミサイルのてっぺんにカプセルを取り付け、それによって宇宙へ行く計画を立てたが、これは早期に否定された。しかし、有人宇宙飛行を諦めたわけではなく、実際の実現に向けて新たに安全な計画が練られることになった。この計画はマーキュリー計画と呼ばれた。安全に人類を打ち上げるために何度ものテストを行い、1959年に軍のテストパイロットから7人の飛行士を選び出した。この7人はマーキュリー・セブンと呼ばれている。 また、米ソは衛星打ち上げ以降、月に注目するようになった。米国もソ連も月にめがけてロケットを打ち上げた。アメリカは月に探査機を送り込むか、ロケットを命中させるという計画を立てパイオニア計画として実行に移した。しかしながら技術水準が低かった当時は、大型のロケットの爆発や、月までの途中でロケットがとまり衛星が戻ってくる失敗なども起こった。このときもソ連はルーニク2号の月への到達、ルーニク3号による月面の裏側の撮影成功でアメリカをリードした。ソ連のリードはアメリカに対して技術的にソ連から大きく劣っているとの危機感を抱かせるに十分であった。また、これらの事柄はアメリカ人が宇宙開発に目を向けるきっかけを作った。このため、アメリカでは三軍、政府、議会、NASA、JPLなどの宇宙開発に関する計画を一元化し、月探査計画と惑星探査計画に結束して注力することになり、月探査計画としてレンジャー計画が発足した。 アメリカがマーキュリー計画の実験を終え、実際に有人宇宙飛行を行おうとしていた1961年4月12日、ソ連はユーリ・ガガーリンをボストークに乗せて地球の衛星軌道を一周させて有人宇宙飛行を達成し、ガガーリンは世界初の宇宙飛行士になった。アメリカの有人宇宙飛行は同年5月5日に行われたが、これは弾道飛行であり、ソ連の実施した飛行内容と比べると大きな差があった。アメリカは2度ならず3度までもソ連に先を越されてしまったのである。また、ソ連は月に宇宙飛行士を送りこむ計画さえ立てていた。アメリカ国内では自嘲的な雰囲気が漂い始めていた。しかし、宇宙開発は転機を迎えることになる。1961年5月25日にはジョン・F・ケネディ大統領が1960年代の内に月にアメリカ人を送り込むと宣言したのである。アポロ計画の始まりである。
※この「有人宇宙飛行と月計画」の解説は、「アメリカ合衆国の宇宙開発」の解説の一部です。
「有人宇宙飛行と月計画」を含む「アメリカ合衆国の宇宙開発」の記事については、「アメリカ合衆国の宇宙開発」の概要を参照ください。
- 有人宇宙飛行と月計画のページへのリンク