日本人町の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 08:51 UTC 版)
タイでの日本人の活動が活発化したのは、ビルマからの攻撃に悩まされていたアユタヤ王ナレースワンが日本人傭兵を大量に採用してからである。傭兵の数は600人に達し、彼らは首都郊外のアユタヤ日本人町に定住するようになった。1592年から朱印船貿易が行われるようになると町は活況を呈し、ソンタムがアユタヤ王につくと日泰間の友好関係も促進された。 「朱印船#朱印船渡航先」も参照 日本はタイ製の火器・銃器などを輸入し、馬などを輸出した。また、豊臣氏、徳川氏が天下をとることによって合戦が起こらなくなった日本では、それまで戦に参加することで日々の糧を得ていた層が、大量の浪人となっていた。彼らは海外に活躍の場を求め、日本を出国していった。欧州各国の東インド会社や、東南アジア諸国は、戦闘経験の豊富な日本人を傭兵として雇うようになり、各地に日本人町が作られた。タイもまた、例外ではなく多くの日本人が移り住んだ。 詳細は「鎖国#武器・傭兵の禁輸」および「浪人#江戸時代」を参照 1621年には城井久右衛門の後を継いだ山田長政が首領に就任、最盛期を迎え、1500人もの民間人と800人の傭兵が居住していたとされている。1628年(仏暦2171年/寛永5年)には山田長政がタイの最高の官位であるオークヤーに任じられるなど、政治面でも大きな力を持つようになったが、1629年(仏暦2172年/寛永6年)プラーサートトーンがアユタヤ王につくと王家の政争に巻き込まれ1630年に町を焼き払われることとなり、日本人は散り散りになった。2年後の1632年には再び日本人が集まり町が再興されたがかつて程の勢力は得られず、1635年に日本で鎖国令が出されたこともあり、人口も400人前後にとどまった。プラーサートトーンはその後日本との交易を望み、1636年に日本に使節を送り通商を求めたが拒否されている。以後250年ほど日泰間の国家的な交流は断絶することとなった。日本人町はその後次第に現地人との混血が進み、1800年代に入ると消滅した。
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