武器・傭兵の禁輸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:48 UTC 版)
秀吉による文禄・慶長の役が失敗に終わり、国内外に大きな被害を与えたため、江戸幕府の対外進出は不活発なものになった。一方で、先発のスペイン・ポルトガルと後発のイギリス・オランダは、貿易の主導権を握るため、東南・東アジア各地で武力衝突を行った。これらの武力衝突や現地での植民地獲得のため、日本の武器や傭兵としての人員が注目され、数多くの武器・浪人が海外へ流出した。 この結果、現地での日本人浪人による蛮行が問題となり、家康に東南アジアから国書で抗議される事態に発展、これに対して家康は現地の一存で日本人を処罰することを認めた。その後、秀忠の治世になると、武器・浪人を含む日本人の海外流出を禁じる方針に転換、また国内への鉛等の武器輸入も幕府が独占した。
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