日本人町の発生から鎖国まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 02:51 UTC 版)
「日本人街」の記事における「日本人町の発生から鎖国まで」の解説
南蛮貿易などで日本人の海外進出が本格化した16世紀以降、東南アジアの港町に日本人が集まって住むようになった。その最大のものはタイのアユタヤ日本人町(16世紀〜18世紀頃)で、最盛期には1000〜1500人の日本人人口を数えた。中でも山田長政はアユタヤー王朝の王の信任を得て王女と結婚し、バンダーサック(タイの官位)第3位の位階を授けられるなど影響力をもった。 また、阮朝(現在のベトナム社会主義共和国)のホイアン、マレー半島のパタニ王国、カンボジアのプノンペン、フィリピンのマニラ(呂宋、ルソン島)にも、小規模ながら同様の日本人町が形成された。 1613年(慶長18年)に伊達政宗がスペイン国王およびローマ教皇のもとに派遣した慶長遣欧使節の中には、日本のキリスト教禁教政策を受けて帰国しなかった仙台藩士等もいるとされる。スペインのアンダルシア州セビリア県にあるコリア・デル・リオには「Xapón(ハポン、日本)」の姓をもつ人が現代でも約700人存在し、1996年には駐スペイン日本大使の呼びかけによってセビリアで子孫らのパーティーが催された。
※この「日本人町の発生から鎖国まで」の解説は、「日本人街」の解説の一部です。
「日本人町の発生から鎖国まで」を含む「日本人街」の記事については、「日本人街」の概要を参照ください。
- 日本人町の発生から鎖国までのページへのリンク