新潮社との関係途絶の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 21:26 UTC 版)
「佐藤亜紀」の記事における「新潮社との関係途絶の経緯」の解説
佐藤は2000年までに新潮社から3冊の著書(『バルタザールの遍歴』、『戦争の法』、『鏡の影』)を出していた。このうち『鏡の影』は同社から1993年に刊行された。平野啓一郎の「日蝕」は1998年に同社の雑誌〈新潮〉に発表された。 佐藤によれば新潮社は、1998年12月に『鏡の影』を絶版とした。1999年3月には『戦争の法』の文庫版を絶版としながら、同社は佐藤にその事実を連絡せず、1994年4月には佐藤が当時執筆していたウィーン会議を題材とした作品の〈新潮〉掲載について「載せる余地がないので掲載は不可能」として掲載約束を反故にしたという。その後、佐藤は3冊の著書の版権を引き上げることを申し入れたため、『バルタザールの遍歴』も2000年春に絶版となった。同年に佐藤は「今後、新潮社とはいかなるビジネスもしない」と述べている。 佐藤によれば、『鏡の影』が新潮社によって絶版とされたのは、「日蝕」が芥川賞候補になってから間もなくであったという。この絶版のタイミングについて佐藤は、同書と「日蝕」が読み比べられることを避けるために絶版とされたのだと「考えたくもなります」と述べているものの、『鏡の影』および雑誌掲載時点での「日蝕」の各々から抜粋して比較対照できそうな箇所はない、と2000年に述べている。 この件はネットやゴシップ雑誌などで盗作疑惑として取り上げられた。佐藤も「ぱくり」「習作段階での補助輪」といったのであり「盗作」とはいっていない、また『鏡の影』と『日蝕』は酷似したプロットである以外はまったく異なる性格を持った作品ではあると主張、違法性のある盗作という言及の仕かたはしていない。 平野は2006年9月のブログにおいて、『日蝕』が1999年に芥川賞を受賞した後に佐藤が『日蝕』について朝日新聞に発表した短い書評を読んだのが佐藤の存在を初めて知った機会であったとしている。平野は2006年9月なかばの時点で佐藤の小説を1行も読んだことがなく、読む意志もなく、佐藤についても関心がないので「『盗作』云々は、あり得ない話である」と述べている。佐藤のウェブサイトに「『日蝕』が佐藤の作品の“ぱくり”である」との佐藤の見解が掲載されていると平野は主張し、“ぱくり”は「盗作」と「要するに同じことである」との解釈を述べたうえで、自身は「『盗作』という屈辱的なレッテルを貼られた」と平野は述べている。 佐藤は2011年1月のブログにおいて、『鏡の影』の連続的な一部分と『日蝕』の「プロットの流れがほぼ一致していることを示すための」表を示したあと、「プロットの借用自体は格別問題はない」としつつ、「しかし『日蝕』の作者が濡れ衣を着せられたと嘘を吐いたことは相当に問題だと、今も考えている。私の現在の見解を申し上げるなら、彼は盗作者ではもとよりないが、平気で嘘を吐く男ではある」と批判している。
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