斎藤大使遺骨の礼送
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 00:03 UTC 版)
「アストリア (重巡洋艦)」の記事における「斎藤大使遺骨の礼送」の解説
1939年(昭和14年)初め、アストリアは第20次フリート・プロブレム(英語版)に参加するために西インド諸島に向かった。演習終了後、アストリアはクレブラ島を艦隊とともに出港し、3月3日にチェサピーク湾に到着した。ノーフォークで燃料を補給した後、アストリアはアナポリスに入港した。これより先の2月26日、日本の斎藤博・前駐米大使がワシントンで死去した。1925年に当時のエドガー・A・バングロフト駐日大使が日本で客死した際、軽巡洋艦多摩で遺体を礼送した返礼として、アメリカ側はパナイ号事件の火消しにも奔走した斎藤大使の遺骨を軍艦で礼送することとなった。斎藤大使の遺骨はワシントンの日本大使館付きの北沢直吉二等書記官に護られてアストリアに乗せられ、アストリアは3月18日にアナポリスを出港した。 3月24日にパナマ運河を通過する頃、アストリアは「在パナマ日本人団より、故斎藤大使の遺骨に対し哀悼の意を捧げます」というメッセージを受け取った。アストリアは4月4日にハワイに到着し、その同じ日には斎藤大使夫人と2人の娘が龍田丸(日本郵船、16,955トン)でホノルルに到着した。2日後、アストリアは先に出港した龍田丸に続いてホノルルを出港し、日本に向かった。 4月17日、アストリアは吹雪型駆逐艦3隻(響、狭霧、暁)に先導され、出迎えの軽巡洋艦木曾と21発の礼砲をかわし、星条旗と日章旗を半旗に掲げて横浜港に入港した。午後、斎藤大使の骨壷の引渡し式が行われた。斎藤大使の葬儀は4月18日に築地本願寺に於て行われた。葬儀の後、日本側はアストリア乗組員に対し最大限のおもてなしを行った。4月24日、リッチモンド・ケリー・ターナー大佐(アストリア艦長)とポール・シーマー・シース中佐(アストリア副長)はジョセフ・グルー駐日大使等と共に昭和天皇に謁見する。駐日アメリカ大使館付け海軍武官ハロルド・M・ビームスは後に、「ターナー艦長がアメリカ側の最大限の誠意の表れとしてこの大任を果たしたことは、最も晴れがましいことだ」と回想した。後刻、斎藤大使夫人と娘からアメリカ側に塔が贈られ、その塔はアナポリスの海軍兵学校構内、ルース・ホールの正面に現存している。 アストリアは4月26日に上海に向けて出港し、29日に到着。5月1日まで滞在し、その間にアジア艦隊(英語版)司令長官ハリー・E・ヤーネル大将の訪問を受けた。アストリアは香港、フィリピンを経て5月21日朝にグアムに到着。同地でアストリアは、掃海艇ペンギン (USS Penguin, AM-33) および雑役艦ロバート・L・バーンズ (USS Robert L. Barnes, AG-27) とともに座礁した陸軍輸送船U. S. グラントの救助にあたった。作業後、アストリアはサンフランシスコからジャンク「シードラゴン」で太平洋を横断し香港に向かっている途中で消息を絶った冒険家リチャード・ハルバートン(英語版)の捜索に参加し、およそ42万平方キロメートルの範囲を捜索したがハルバートンを発見することはできず、捜索は5月29日に打ち切られた。
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