ルース・ホール
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「ナサニエル・パーカー・ウィリス」の記事における「ルース・ホール」の解説
ウィリスは1854年以後、妹のサラ・ウィリス(ファニー・ファーン)の作品掲載を自己裁量で拒んでいた。ただし、それ以前にサラは「ホーム・ジャーナル」に匿名で書評を寄稿していた。サラは未亡人になったばかりであり、貧窮者となり、その虐待された2番目の夫からは公然と非難されていた。ウィリスはサラの情動不安と考えるものを批判し、彼女をその詩『私の野卑な妹に』の対象にしたこともあった。サラはファニー・ファーンとして、その前年に『Fern Leaves』を出版し、10万部以上を売っていた。しかしウィリスは彼女が書くことを応援しなかった。「貴女は憐れを誘うことに過ぎており、貴女のユーモアはときには恐ろしいほどの野卑さになっている。...私の妹が私に送って来たようなものを書いていると、どの編集者も知っていることを残念に思う」と記していた。1854年、サラは『ルース・ホール、現在について国内の話』を出版し、文学の世界における彼女自身の困難さについて、ほとんど隠すことの無い半自叙伝的証言だった。ウィリスは「ヒアシンス・エレット」として登場し、女々しく、利己的な編集者であり、その妹の作家としての将来性を損なっていると描かれている。ウィリスは公に抗議はしなかったが、架空の存在とされているものの、特にサラの最初の夫が死んだ後など、妹の困難な時期に彼女を支えるために最善を尽くしたことを、私的に主張していた。 ウィリスの後年の作品には、その人生や出逢った人々の伝統的なスケッチ手法に従い、『ハリー・グラフス』(1851年)、『アイドルワイルドの屋外』(1854年)、『ぼろ入れ袋』(1855年)などがあった。ウィリスはその雑誌に記事を書いていることで長編を書けないとこぼしていた。1856年、唯一の小説となった『ポール・フェイン』を書き、一年後に出版した。この小説の登場人物のボシュ・ブリビンスはコミックリリーフ(滑稽な人物)であり、画家のチェスター・ハーディングを題材にしている可能性がある。最後の作品は1859年に出した『病気上がり』であり、ワシントン・アーヴィングの自宅サニーサイドで過ごした時間の章が入っている。
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