提唱、見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 01:29 UTC 版)
臨済宗妙心寺派管長であった山本玄峰は、本公案について次のように提唱している : 禅の修行とは、天地と我と同根、万物と我と同一体になるための修行である。また、六祖慧能が「理に明らかにならざれば、身を苦しめて何の益かあらん」と言っているように、人間とはこういうもので、人間の本能を尽すにはこうでなければならないという、本当の道理に明らかになるための修行であり、それ以外のことではない。そのためには根本智慧をはっきりさせる必要があり、これを趙州は「無」といい、白隠慧鶴は片手の音を聞けといい、五祖法演はこの無を頌して「趙州の露刃剣」といって「寒霜光焔々(かんそうひかりえんえん)、擬議如何(ぎぎいかん)を問えば、身を分けて両断となす」といい、名刀を振り上げるようにこの無を振り上げ、煩悩妄想をすっきりと叩き殺すべきことを述べている。そうでないと、(他人の意見に振り回され)何事も快刀乱麻を立つように了解できない。 臨済宗円覚寺派管長であった朝比奈宗源は、本公案について次のように提唱している : 趙州は験主問の小細工に惑わされる人ではないので、けろりと「無」と切って放った。僧が験主問によって引っかけようとしたわなには届かない。しかしながら、趙州はこの「無」の一字によって、仏性の絶対性、普遍性を、多くの言葉を費やす以上に明瞭に力強く表現した。無門慧開も、無学祖元も白隠慧鶴もこの公案によって大死一番した。禅者の目から見ればこの一ヶの無字が一大蔵経でもあり、全宇宙でもある 。 臨済宗妙心寺派管長であった西片擔雪は、本公案について次のように提唱している : 何も思わぬ、つまり無心になるのは仏の稽古である。皆、わけも分からず「無」「無」というているが、すべてを包み込みすべてを救う大きな慈悲心が無である。倫理道徳は肯定から出発するが、宗教は否定から出発し、出発点が正反対である。しかし宗教はその否定をさらに否定することで再び肯定の世界に戻ってきて、道徳との接点が生まれるが、別物である。趙州和尚はその宗教の原点を無という一語で示した。真に無になりきることによって、有に生まれ変わる。
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