杉山杉風
(採荼庵 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/06 00:49 UTC 版)
杉山 杉風(すぎやま さんぷう、正保4年(1647年) - 享保17年6月13日(1732年8月3日))は、江戸時代前期から中期の俳人。蕉門十哲の一人。通称は市兵衛、または藤左衛門。名は元雅。別号は採荼庵、荼庵、荼舎、蓑翁、蓑杖[注釈 1]、五雲亭、存耕庵。隠居して一元。
- ^ (蕉門十哲, p. 53)は「衰杖・衰翁」、『江戸名所図絵第四冊』巻之七搖光之部1753頁には「
衰翁衰杖 」、『芭蕉事典』320頁には「蓑翁・衰杖」とある。初め「蓑翁」といったが、大病ののち衰えた杉風を見た芭蕉が「蓑」を「衰」にしたらよいと戯れに言い、晩年の杉風において「衰翁」を別号にしたものという(『図説江戸の芭蕉を歩く』104頁)。 - ^ 『杉風秘紀抜書』には「杉風本国三河」とあるが、これは杉風の娘婿(三河池鯉鮒生まれ)との混同による(俳諧人名辞典, p. 127-128)
- ^ 芭蕉の江戸出府当初の寄寓先については、杉風とする説(平山梅人『杉風秘記抜書』、泊船居竹二坊『芭蕉翁正伝』)のほかに、小沢卜尺とする説(菊岡沾涼『綾錦』、蓑笠庵梨一『芭蕉翁伝』)や、鳥羽屋三右衛門のち三枝主水とする説(武田村径『二書一巻聞書』)もある(「芭蕉の初期江戸寄寓一説」59頁)。
- ^ 深川芭蕉庵は時代により3つある。杉風が提供した生簀の番屋であった第1次芭蕉庵は天和の大火で焼失。天和3年(1683年)、山口素堂らの働きで第2次芭蕉庵が建てられるが、元禄2年(1689年)、おくのほそ道の旅に先立って人に譲渡。元禄5年(1692年)、杉風、枳風らによって第3次芭蕉庵が建てられた(『奥の細道の旅ハンドブック』8-10頁)。
- ^ 芭蕉庵のあった深川周辺には、杉風の採荼庵や、河合曾良、宗波らが集う山口素堂の庵があり、清閑を楽しむ蕉門の一群があった(『俳人の書画美術』82頁)。
- ^ a b c d 『和漢詩歌作家辞典』387頁
- ^ a b c d 潁原退蔵著作集, p. 224.
- ^ a b c d 『国書人名辞典』395頁
- ^ a b 『俳句人名辞典』184頁
- ^ 俳諧人名辞典, p. 127.
- ^ a b c d e f g 『芭蕉事典』320頁
- ^ a b 芭蕉の門人, p. 45.
- ^ a b 潁原退蔵著作集, p. 225.
- ^ a b c d e f 『俳句人名辞典』185頁
- ^ a b c 『和漢詩歌作家辞典』388頁
- ^ 『俳句の歴史』49頁
- ^ a b 俳諧人名辞典, p. 128.
- ^ 潁原退蔵著作集, p. 224-225.
- ^ a b 『俳句人名辞典』184-185頁
- ^ 「無情漂泊の詩心」7頁
- ^ 俳諧人名辞典, p. 129.
- ^ 芭蕉の門人, p. 47.
- ^ 『日本古典文学大事典』542頁
- ^ 芭蕉の門人, p. 49-50.
- ^ 『俳文学大辞典』347頁
- ^ a b 『俳人の書画美術』85頁
- ^ 芭蕉抄, p. 77-79.
- ^ 俳諧人名辞典, p. 131.
- ^ 芭蕉の門人, p. 53-54.
- ^ 『日本文学大辞典』337頁
- ^ 潁原退蔵著作集, p. 227.
- ^ 芭蕉の門人, p. 54-55.
- ^ 蕉門十哲, p. 52.
- ^ 蕉門十哲, p. 53.
- ^ a b c d 俳諧人名辞典, p. 130.
- ^ 『杉風と曾良と芭蕉』175頁
- ^ 『国書人名辞典』395-396頁
- ^ 『芭蕉事典』321頁
- ^ 芭蕉の門人, p. 57.
- ^ 芭蕉の門人, p. 59.
- ^ 芭蕉の門人, p. 54.
- ^ 潁原退蔵著作集, p. 226.
- ^ 芭蕉の門人, p. 5.
- ^ 蕉門頭陀物語, p. 22.
- ^ 芭蕉の門人, p. 60.
- ^ 蕉門十哲, p. 51.
- ^ 『心耳の譜』101,109-110頁
- ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所『讀史備要』(新訂版)内外籍、1935年。doi:10.11501/1915733。NDLJP:1915733 。
- 採荼庵のページへのリンク