戦場外での日本刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:56 UTC 版)
戦場外でも本差と脇差は携帯され、これは比較的扱いやすく丈夫(いざというときは命を預けられる)すぐれた護身用の携帯汎用武器として秀逸であったことを示している。戦場用よりも護身用の武器としてより役立った。刃物により切り傷を負わせる事で、殺害せずに相手の戦意を喪失させたり、出血多量で戦闘能力を失わせる戦法は一定の効果を発揮するとされ、喧嘩の道具としては有用だったと思われる。なお江戸時代の初期には社会が不安定で戦場から流出した武器も出回っていたことから、江戸初期の京都を描いた洛中洛外図(舟木本)には数人のかぶき者が槍や薙刀で喧嘩している様子が描かれているなど、喧嘩でも様々武器が使われていた。ただし槍や薙刀の所持は次第に難しくなった。 平和になるにつれ刀も緊急時以外は殆ど用いられることがなくなったが、あだ討ちに使われるなど、十分な殺傷力を秘めていることを実証している。 1875年(明治8年)に採用され廃刀令の元となった山縣有朋の建議は「刀は倒敵護身を目的としているが、国民皆兵や警察制度により個人には必要なくなった」という趣旨である。ただし、廃刀令以降も所持自体は禁止されていなかったことから、庶民は日本刀を始めとした武器を所有しており、関東大震災後に組織された自警団でも多くの打刀や小太刀が利用されていた。 江戸時代以降は剣術道場が多く誕生し、町人・農民にも親しまれていたのとは対照的に、他の武芸十八般に含まれる武器術は武家以外には広まりを欠け、多くが失伝したとされる。また剣術についても平時の服装で剣のみを用いる「素肌剣術」が主流となり、甲冑を着込んだ状態で使う「介者剣法」は下火となった。町人・農民が大半の新選組では剣術、柔術、軍学、砲術、馬術、槍術の各師範を設けたが、竹刀による素肌剣術の稽古以外には本格的な訓練が行われた記録が無い。新選組の構成員で剣術以外を本格的に学んだ者は原田左之助(槍術)など少数の武家出身者だった。
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