戦争、暴力と非戦論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 03:04 UTC 版)
「キリスト教とユダヤ教」の記事における「戦争、暴力と非戦論」の解説
詳細は「en:Christian pacifism」を参照 ユダヤ教とキリスト教とは、有効かつ拘束力を持つ教えとして道徳的なトーラーの教義を数多く共有している。これら2つの宗教の倫理系統には、多くの共通部分がある。にもかかわらず教義には、そうとうに大きな差異がいくつか見受けられる。 ユダヤ教には平和と和解に関して多くの教えが存在し、それによれば身体的な暴力は最後の手段とされている。しかしタルムードでは「誰かが殺意をもって向かってきたならば、(殺されてしまうよりは)自己防衛による殺人も辞さない」ことを義務とする。ユダヤ律法では自殺を禁じているが、のどをさらすことは自殺行為に等しく、殺人者が「盲人の前に障害物を置く」(つまり他者の邪魔をする)行為を幇助しているのも同じだという。平和の法と自衛の義務との綱引きは、戦術的平和主義と呼ばれるユダヤ教の教えへとつながっている。これは乱暴や暴力を可能な限り回避するが、自分や民族の生命を守る必要がある場合には力を行使するというものである。 通常ユダヤ律法では、神の徳を否定する行為として自殺を禁じている。しかし殺されたりユダヤ教への裏切りを強いられたりといった極限状況のもとでは、ユダヤ人は自殺や集団自殺を選ぶ。この時代の恐ろしい名残として、ユダヤ教の典礼には「ナイフがのどに押し当てられたとき」の祈りや 死に際して「神の名をことほぐ」祈りさえ存在する(殉教を参照)。これらの行為に対しては、ユダヤ教の権威の中にもさまざまな反応がある。一部のユダヤ人が彼らを英雄的な殉教者とする一方で、ユダヤ人は常に殉教の覚悟を持つべきだが自身で命を絶つのは間違いだと考える者もいる。 ユダヤ教は現世に重きを置く宗教であり、ラビたちは生存と対立に関する多くの論点について、神を信仰する者はそのような状況下でどうあるべきかを理解するため、タルムードに基づいて非常に深く掘り下げて論議した。たとえば古典的な道徳的ジレンマの例として、砂漠に取り残された2人の持っている水が1人分しかない場合などが挙げられる。 山上の垂訓の記録によれば、誰かが頬を叩きにきたら、もう一方の頬も差し出せとイエスは教えたという。これに従いプロテスタントの4つの宗派は平和主義的神学を発達させ、乱暴や暴力を常に回避しようとする。彼らは歴史的平和教会として知られ、キリストの非暴力の教えを神学に取り入れ、暴力の行使場面に適用しようとしてきた。これらの宗派には、クエーカー、メノナイト、アーミッシュ、ブレザレン教会が含まれる。キリスト教国家や連合の大多数はこの神学を採用せず、実際問題としてそれに従うことはなかった(マタイ伝 10:34参照)。
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