憲法の破棄と復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 07:02 UTC 版)
「1824年メキシコ憲法」の記事における「憲法の破棄と復活」の解説
1835年にメキシコの国家の基礎をゆるがす劇的な変化が起きた。保守派が選挙に勝利したことで、ミゲル・バラガン(英語版)臨時大統領(法律上の大統領はアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナだったが不在)のもとで1835年10月23日に「憲法の基礎」(Bases Constitutionales)が承認され、これによってメキシコの第一連邦共和国は終わりを告げ、暫定的な中央集権的体制が成立した。1836年12月30日に臨時大統領ホセ・フスト・コロ(英語版)はシエテ・レイェス(七憲令)を制定し、1824年憲法は正式に廃止された。 シエテ・レイェスでは「自由な州」はフランスの制度にならった「県」(departamentos)に置きかえられ、国家権力をメキシコシティに集中させた。この決定によって政治的不安定が生じ、中央と旧諸州の間は反目しあった。各地で反乱が発生したが、とくに重要なものに以下がある。 テハス(テキサス)はメキシコからの独立を宣言し、中央集権的体制への参加を拒否した。アメリカ合衆国の移民たちはオースティンで大会を開き、メキシコ中央政府に対するテキサス人の戦争を宣言し、メキシコの法と権力を無視し、テキサス共和国の成立に到った。 ユカタンでは1840年(公式には1841年)に独立を宣言した。ユカタン共和国は1848年にメキシコに再統合した。 ヌエボ・レオン、タマウリパス、コアウィラは短期間(250日未満)事実上メキシコから独立した。リオグランデ共和国は独立した実体となることなく中央集権派の軍に敗北した。 タバスコは保守派の大統領アナスタシオ・ブスタマンテによる中央集権と州に対する制裁に反対して1841年2月にメキシコからの分離を宣言したが、1842年12月にメキシコに再統合した。 テキサスの併合と州境の紛争が原因となり、アメリカ合衆国のメキシコ介入が発生した。その結果、1846年8月22日にホセ・マリアーノ・サラス(英語版)大統領のもとで1824年憲法が復活した。1847年5月21日に改革法 (es:Acta constitutiva y de reformas de 1847) が公布され、1824年の憲法が多少の修正を加えた上で正式に再制定された。 サンタ・アナの復活と保守独裁政治の後、1854年3月1日にアユトラ綱領が連邦派の勢力によって公布されてサンタ・アナは追放された。臨時大統領フアン・アルバレス(英語版)のもとで憲法制定議会が招集され、1857年メキシコ憲法が起草された。
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