保守派の大統領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 06:38 UTC 版)
「フェリックス・マリア・スロアガ」の記事における「保守派の大統領」の解説
スロアガはプエブラでの二つの遠征では保守派と戦っていたが、1857年12月17日に、『1857年憲法』への反対を表明し、将軍たちの軍事政権とカトリック聖職者の指導によるクーデターに参加した。2年後、穏健派の大統領イグナシオ・コモンフォルトは復古的な「タクバヤの陰謀(英語版)」を受け入れて、憲法を廃棄した。ベニート・フアレスを含む自由主義者らは、法に基づいて最高裁長官で副大統領のフアレスを後継大統領としたが、彼らは逮捕され投獄された。 コモンフォルト大統領が彼が最高権力者であることを表明したあと、軍事政権の指導者は窮地に陥った。1858年1月11日、コモンフォルトの友人であったスロアガは大統領の辞任を要求した。コモンフォルトは10日間抵抗し、その間に彼はフアレスや投獄されていた他の自由主義者を自由の身にした。 コモンフォルトによる自由主義者の解放で、フアレスは憲法による一致で大統領とみなされた。しかしスロアガは首都の軍を掌握しており、フアレスはグアナフアトに臨時政府を樹立せざるを得なかった。これはレフォルマ戦争の始まりであった。コモンフォルトはどの党派からも否認され、亡命した。 スロアガは、反憲法議会、保守派の将軍とカトリックの聖職者によって暫定大統領に選ばれた。ナビダ計画のもと、遠征中のミゲル・ミラモン将軍の代わりであったマヌエル・ロブレス・ペスエラによって証言された、1858年12月24日まで大統領を務めた。ロブレス・ペスエラは大統領を1859年1月21日にまで務め、24日にはスロアガが大統領に復帰した(ホセ・マリアーノ・サラス(英語版)も短期間だが保守派の大統領だという)。 スロアガの第2期は2月1日まで続き、その後ミゲル・ミラモンがとって代わった。1860年5月9日に、スロアガは大統領であることを主張したが、後にミラモンは彼を逮捕した。 ミラモンはスロアガの逮捕に際してついて行ったと記録されている。「私はあなたに大統領になる方法を教えよう」。スロアガはレオン・グアナフアトから1860年8月6日に逃亡し、メキシコシティに進軍した。しかし統治評議会(軍事政権の議会)は彼を大統領として認めなかった。
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