保守派の支配 1877年-1890年
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「サウスカロライナ州の歴史」の記事における「保守派の支配 1877年-1890年」の解説
ウェイド・ハンプトン将軍や他の元南軍古参兵に率いられる民主党は戦前の政策に戻すことを支持した。保守派あるいはブルボン民主党として知られるこの指導層は、政府による必要最低限の介入と、白人優位を維持しつつ黒人との宥和政策を好んだ。また保守派の興味は、サウスカロライナ大学を戦前の州内高等教育制度を指導する傑出した位置付けに戻すこともあった。 民主党はひとたび政権を取ると直ぐに、その地歩を固め急進派共和党によって州内に与えられた損失の回復に努めた。共和党員がその役職を辞任するように圧力を掛けたので、1年以内に立法府と司法府の役職はしっかりと民主党の支配下に入った。レコンストラクションの間に高位にあった共和党員によって行われた汚職や不正行為に対する調査を始めた。1876年の選挙運動での暴力沙汰に関わったとして告発されていた白人の起訴を連邦政府が取り止めたときに、共和党員の告訴も取り下げられた。 民主党はその位置付けが安定すると、次は州債の問題に取り掛かった。レコンストラクション中の政府は公的教育制度や新しい慈善制度を刑務所の改良と共に打ち立てていた。そこに汚職が生まれたが恩恵を受けたのはほとんど白人の南部人だった。戦前は農園主階級が教育のような公的プログラムの支援を拒んだために、税金は過度に低かった。戦後期の緊急事態は州債を急速に拡大させた。急進派共和党が1868年に権力を握ったときの州債は540万ドルであったのに対し、共和党が州政府の権限を失った1877年には1,850万ドルまで脹れ上がっていた。マーティン・ゲイリーに率いられた内陸分の多くの民主党員は州債を全額帳消しにするよう要求したが、ゲイリーはチャールストンの債権者に反対された。ウェイド・ハンプトンによる妥協案が提示されて成立し、1882年10月までに州債は650万ドルまで減額された。 保守派によって行われた他の議会主導施策はその主要な支持者である農園主や事業家階級に恩恵を施した。あらゆる税金が引き下げられ、貧乏な白人や黒人を助けていた公的な社会と教育のプログラムに対する予算がカットされた。口頭での契約が法的に拘束力あるものとされ、契約不履行は刑事犯罪として強化された。また農園主に対して負債がある者は労働で負債を償還できるとされた。さらに、サウスカロライナ大学は士官学校と共に再開され、州政府によって寛大に支援された。 1880年代遅くまでに、農民運動が州内に拡がり、自給農夫がその政治的権利を行使することを奨励した。彼らは議会に圧力を掛けて農業大学を作らせた。1887年に議会は渋々ながらサウスカロライナ大学に農学部を併設して要求を満たした。ベンジャミン・ティマンは農民を刺激してコロンビアの政治とは無縁な農業大学を別に要求させた。保守派民主党は1889年に遂に折れた。
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