忍性らへの諡号推挙
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名実ともに真言宗の高僧となった文観は、その立場を活かし、出身母体である律宗の振興に務めた。 嘉暦2年(1327年)12月21日には、「東長大事」という奥義を、般若寺の衆首(代表者)である如空房英心(如空上人)に伝授した(「東長大事」群馬県慈眼寺本奥書)。英心は信空の高弟で、文観の兄弟弟子に当たる(『律苑僧宝伝』巻第14)。このとき文観は「内供奉十禅師殊音」という、律僧としての名前で記録されている。 嘉暦3年(1328年)5月26日には、後醍醐天皇から、鎌倉極楽寺の良観房忍性に対し、「忍性菩薩」の菩薩号が諡号として贈られた(『僧官補任』)。忍性は貧民やハンセン病患者、非人の救済に生涯を捧げた人である。後伏見天皇から叡尊への「興正菩薩」が、正安2年(1300年)閏7月3日だから、律僧が諡号を贈られたのは約28年ぶりで、忍性の入滅からも25年が経っている。この宣下の背景には、文観の後押しがあったとする説が古くからあり、内田啓一も同意する。 嘉暦4年(1329年)2月25日には、西大寺長老第2世で文観の師であった信空に対し、「慈真和尚」の諡号が贈られた(『僧官補任』)。後醍醐の勅によれば、信空は「戒行清峻、道徳高邁」であり、後宇多・後醍醐父子からの帰依篤かったという(『律苑僧宝伝』巻第13)。約1か月後の3月26日には、文観自身が直接この知らせを持って京都から奈良の西大寺まで赴いた(「勅諡慈真和尚宣下記」)。このような行動から見て、やはり、文観からの推挙があったのは間違いない。 さらに続けて元徳2年(1330年)8月9日には、唐招提寺中興の祖である覚盛に対し、「大悲菩薩」の諡号が贈られた(『僧官補任』)。覚盛は真言律宗系ではないものの、叡尊の同期として、戒律復興を主導した高僧である。この時の唐招提寺中興9世長老である覚恵は、文観から付法を受けたこともある人物だった。10世長老の慶円は、『太平記』では文観と共に幕府調伏の祈祷を行った仲間「教円」として登場する人物であり、『太平記』の内容が事実であるかはさておき、少なくとも『太平記』原作者(あるいは後の編集者)の眼からは同一派閥と見なされた僧である。内田の主張によれば、忍性・信空への諡号と続くことと、唐招提寺勢力との密接な繋がりを考えれば、覚盛への諡号にも文観からの要請があったのではないかという。
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