忍性らへの諡号推挙とは? わかりやすく解説

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忍性らへの諡号推挙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)

文観」の記事における「忍性らへの諡号推挙」の解説

名実ともに真言宗高僧となった文観は、その立場活かし出身母体である律宗振興務めた嘉暦2年1327年12月21日には、「東長大事」という奥義を、般若寺の衆首(代表者)である如空房心(如空上人)に伝授した(「東長大事」群馬県慈眼寺本奥書)。英心は信空高弟で、文観兄弟弟子に当たる(『律苑僧宝伝』巻第14)。このとき文観は「内供奉十禅師殊音」という、律僧としての名前で記録されている。 嘉暦3年1328年5月26日には、後醍醐天皇から、鎌倉極楽寺良観忍性対し、「忍性菩薩」の菩薩号が諡号として贈られた(『僧官補任』)。忍性貧民ハンセン病患者非人救済生涯捧げた人である。後伏見天皇から叡尊への「興正菩薩」が、正安2年1300年)閏7月3日だから、律僧諡号贈られたのは約28年ぶりで、忍性入滅からも25年経っている。この宣下背景には、文観後押しがあったとする説が古くからあり、内田啓一同意する嘉暦4年1329年2月25日には、西大寺長老2世文観の師であった信空対し、「慈真和尚」の諡号贈られた(『僧官補任』)。後醍醐の勅によれば信空は「戒行清峻、道徳高邁」であり、後宇多後醍醐父子からの帰依篤かったという(『律苑僧宝伝』巻第13)。約1か月後の3月26日には、文観自身直接この知らせ持って京都から奈良西大寺まで赴いた(「勅諡慈真和尚宣下記」)。このような行動から見て、やはり、文観からの推挙があったのは間違いない。 さらに続けて元徳2年1330年8月9日には、唐招提寺中興の祖である覚盛対し、「大悲菩薩」の諡号贈られた(『僧官補任』)。覚盛真言律宗系ではないものの、叡尊同期として、戒律復興主導した高僧である。この時の唐招提寺中興9世長老である覚恵は、文観から付法受けたこともある人物だった。10長老慶円は、『太平記』では文観と共に幕府調伏祈祷行った仲間「教円」として登場する人物であり、『太平記』内容事実であるかはさておき少なくとも『太平記』原作者(あるいは後の編集者)の眼からは同一派閥と見なされた僧である。内田主張によれば忍性信空への諡号と続くことと、唐招提寺勢力との密接な繋がり考えれば覚盛への諡号にも文観からの要請があったのではないかという。

※この「忍性らへの諡号推挙」の解説は、「文観」の解説の一部です。
「忍性らへの諡号推挙」を含む「文観」の記事については、「文観」の概要を参照ください。

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