康和5年在銘経筒と経塚造営の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/11 14:56 UTC 版)
「柏尾山経塚」の記事における「康和5年在銘経筒と経塚造営の背景」の解説
出土遺物のうち、康和5年の経筒は東日本において最古の年記を持つ経塚遺物である点が注目された。日本列島における経塚の造影は、藤原道長が寛弘4年(1007年)に造営した金峰山経塚造営をはじめ、西国を中心に平安時代中期から行われているが、康和5年は東日本最古級の記年であり、国の重要文化財に指定され東京国立博物館に所蔵されている。また、山梨県立博物館においてはレプリカが常設展示されている。 康和5年在銘経筒は円筒形で、高さ29センチメートル、身口径17.5センチメートル。被蓋式の大型銅製経筒。銘文は和漢混淆文で蓋部分に4行39字、筒身の本文が23行744字、別記4行の計783文字が鏨(たがね)により彫られている。銘文作者は紀忠末、筆者は文屋重行、鋳造は僧永尊。内容は発願から写経、埋納までの一連の経緯で、関係人物や地名などが詳細に記されている。銘文の全文は、『山梨県史』資料編に収録されている。 銘文に拠れば、康和2年(1100年)に山城国乙国郡石上村生まれの僧・寂円は63歳にして出家し、諸国を遊行する。甲斐国山梨郡内牧山村の「米沢寺」の千手観音の宝前に篭居し、弥勒信仰に基づく勝因祈願のため経塚造営を発願する。寂円は3年の歳月かけて法華経8巻を写経し、康和5年3月24日に比叡山学僧で柏尾山寺往生院院主の堯範に奉じ、4月22日に「白山妙里之峯」において埋納を行った。「柏尾山寺」は三枝氏によって創建された甲州市勝沼町に所在する大善寺を指し、浄土思想の影響を受けて往生院が設けられた。『甲斐国志』によれば、往生院は江戸時代の文化年間には既に廃寺となっていたという。往生院院主の堯範は天台宗・比叡山と関わりのあった点も注目される 寂円の書写期間の長さから、楮を栽培して紙の製造から行っていたとも考えられている。また、関係人物には甲斐国司・藤原基清や三枝守定・守継・守清など在庁官人の三枝氏の名も見られる。 銘文の内容から、経塚造営のほか寂円のような遍歴僧や天台宗勢力の活動、柏尾山寺の大檀那であったと考えられている古代豪族の信仰など、古代甲斐国についての多くのことを伝えている。 写経が行われた「米沢寺」は山梨市牧丘町杣口に所在する米沢山雲峰寺の前身寺院にあたり、同地の杣口金桜神社奥社地遺跡に所在していた可能性が考えられている。
※この「康和5年在銘経筒と経塚造営の背景」の解説は、「柏尾山経塚」の解説の一部です。
「康和5年在銘経筒と経塚造営の背景」を含む「柏尾山経塚」の記事については、「柏尾山経塚」の概要を参照ください。
- 康和5年在銘経筒と経塚造営の背景のページへのリンク