康宝育説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 15:15 UTC 版)
『編年通録(朝鮮語版)』と『高麗史節要』によると、国祖とは康宝育だという。中国の陝西省京兆郡出身の康叔の次男の67代子孫の康虎景の息子が康忠であり、康忠は、伊帝健・宝甸・康宝育の3人の子を授かる。康宝育は姪の康徳州を娶り娘の康辰義をもうけ、その康辰義と中国人とのあいだに生まれたのが王帝建である。王帝建の父の中国人は中国唐の皇族で、『編年通録(朝鮮語版)』と『高麗史節要』では粛宗、『編年綱目』では宣宗である。父の中国人が新羅に来た時に、康宝育の娘の康辰義との間に王帝建は生まれた。王帝建は、父を探しに唐に行くため黄海を渡河していた途上、西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)と出会い、王帝建は、西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)の駙馬となる。『聖源録』によると、西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)というのは、中国平州出身の頭恩坫角干の娘のことである。そして王帝建と西海龍王の娘の龍女(後の元昌王后)との間に息子の王隆が生まれる。その王隆の息子が高麗の初代王王建である。
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