庶民院議員から議長へ
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「ロバート・ハーレー (初代オックスフォード=モーティマー伯)」の記事における「庶民院議員から議長へ」の解説
1687年頃より庶民院議員への就任を望んだが、しばらくは機会に恵まれず、父の領地の管理と1689年3月に就任したヘレフォードシャー州長官(英語版)の職務に勤しんだ。1688年の名誉革命にあたり、父とともに騎兵部隊を募ってウスターを占領し、オラニエ公ウィレム3世(後のイングランド王ウィリアム3世)への支持を表明したことがホイッグ党支持のボスコーエン家(Boscawen)に評価され、ボスコーエン家が支配するトレゴニー選挙区(英語版)で1689年4月に行われた補欠選挙で無投票当選し、政界入りを果たした。ハーレーは5月14日に処女演説をしたのち、1689年仮議会でホイッグ党正統派の一員として行動した。 翌1690年イングランド総選挙でははじめヘレフォードシャーのレンスター選挙区(英語版)からの出馬を検討したが、同選挙区の情勢を検討した結果レンスター選挙区からの撤退を決めた。ハーレーは代わりにラドナー選挙区(英語版)で立候補、サー・ローランド・グウィン(英語版)と接戦ののち、選挙申し立て(英語版)の結果1690年11月に逆転当選を果たした。 議会では当選が宣告された翌日に早くも庶民院の軍部会計監査委員会(committee of inquiry into the estimates and accounts of the armed forces)に加入するなど議事に熱心で、同年12月には庶民院の公会計委員(commissioner of public accounts)に選出された。後年にハーレーが回想したところでは国王ウィリアム3世が1691年6月から1702年に死去するまで度々ハーレーを呼び出したとされ、このときは国政の官職に就任しなかったもののラドナーシャー(英語版)での名誉職は受け入れ、以降の再選を揺るがないものにした。1693年にフォーリーらトーリー党員とともに反コート派(カントリ派)に転じ、1694年11月に三年議会法案(英語版)を提出して可決させたほか、1696年に国家土地銀行(National Land Bank)を設立してイングランド銀行を取って代わろうとし、一旦は設立に成功されたもののイングランド銀行の置換は失敗に終わった。また、1696年末に第3代準男爵サー・ジョン・フェンウィック(英語版)(ウィリアム3世暗殺未遂事件の首謀者)の私権剥奪に反対票を投じた。 大同盟戦争が終わった後、1697年12月に軍の規模を1680年時点まで縮小することを主張して認められ、1698年12月にもイングランド陸軍を7千人に制限軍縮を行った。これにより一躍トーリー党の有力者にのし上がったが、穏健派だったためホイッグ党や非国教徒から敵視されることもなく、1701年1月イングランド総選挙(英語版)の後、同年2月10日に議会が開会すると、120票差で第2代準男爵サー・リチャード・オンズローを破って庶民院議長に選ばれた。第3代準男爵サー・トマス・リトルトン(英語版)もはじめ出馬を表明したが、ウィリアム3世の要請を受けて取り下げている。しかし、1701年11月イングランド総選挙(英語版)の後に行われた議長選挙ではリトルトンが再出馬し、ウィリアム3世の支持も受けたため、ハーレーは再選されたものの4票差という僅差だった。アン女王の即位に伴う1702年イングランド総選挙(英語版)の後、10月に議長に再選、11月に議会を代表してトーリー党所属のジョージ・ルークへの謝意を表明した。 1702年に議論となった便宜的国教徒禁止法案を巡り、イングランド国教会の一派である高教会派を風刺したダニエル・デフォーが投獄されたが、ハーレーはデフォーに目を付けて援助を行い釈放させた。デフォーはハーレーの意を受けてパンフレット宣伝を行い、ジャーナリズムを展開していくことになる。
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