庶民院に対する劣後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:25 UTC 版)
「貴族院 (イギリス)」の記事における「庶民院に対する劣後」の解説
15世紀中期の薔薇戦争は、封建貴族を没落させ、新興中産階級を台頭させた。テューダー朝期には貴族は「王室の藩屏」と化し、独立性を失った。一方新興中産階級は次々と庶民院に出てきてテューダー朝の王権と協力関係を築き、教会を追い落とすことを狙って宗教改革を推進した。この宗教改革で聖職貴族も発言力を低下させ、貴族院の力は低下した。このような状況からテューダー朝期の議会は「従順議会(Docile Parliament)」とも呼ばれるが、議会が中世から獲得してきた諸権利が失われたわけではなく、庶民院の影響力はこの時期にどんどん増した。 ステュアート朝期の17世紀前期までには庶民院はあらゆる王権(行政権)に介入するようになり、国王と庶民院の対立が深刻化した。17世紀半ばにピューリタン革命が発生し、王政は廃されて共和政が樹立された。この際に「王室の藩屏」たる貴族院も廃止され、一院制になった。1660年には王政復古があり、貴族院も復古したが、これは絶対王政の復古を意味するものではなく、国王は再び革命が起こらないよう腐心せざるを得なくなり、したがってますます議会に逆らうのが困難となっていった。 1689年の名誉革命によって権利章典が議会で制定された。これにより王権は大幅に制限され、議会権力の王権に対する優位が確立された。これ以降、庶民院における信任を背景に政府が成立するという議院内閣制(政党内閣制)が発展していく。そのため政治の実権は庶民院が掌握するところとなり、貴族院の影は薄くなっていった。庶民院から支持を得ているが、貴族院で多数を得ていないという政府は、しばしば国王大権の貴族創家で貴族院を抑え込むようになった。 1707年にイングランドとスコットランドが合同してグレートブリテン王国が成立すると、スコットランド貴族のうち互選された16人が貴族代表議員としてイギリス貴族院に議席を置くことになった。また1801年にアイルランドと合同した際にもアイルランド貴族のうち28人が貴族代表議員としてイギリス貴族院に議席を有することになった。 18世紀末頃から大量の叙爵が行われるようになり、貴族院議員数が急増した。その結果、貴族院はこれまでの「比較的少数の国王の世襲的助言者」という立場から「特権階級の既得権擁護機関」と化し始めた。19世紀から20世紀初頭にかけての貴族院は、保守党が政権にある時は協調し、自由党が政権に就くとその改革の妨害にあたることが多かった。その結果、自由党支持層に貴族院改革の機運が高まり、自由党政権期の1911年に議会法が制定された。これにより貴族院は財政法案に関する否決・修正権限を失い、またそれ以外の法案についても庶民院において3回可決された場合は否決しても無意味となった(庶民院の優越)。ただしこの段階では貴族院は庶民院で通過された法案を2年も引き延ばすことが可能だった。 なお20世紀以降は貴族院議員が首相になることは憲法慣習として避けられるようになった。最後の貴族院議員の首相は1902年7月まで首相を務めた第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルである。ただしこの憲法慣習は組閣の大命を下す国王(女王)を拘束するものではなく、1963年10月には第14代ヒューム伯爵アレグザンダー・ダグラス=ヒュームが任命されている。この時にはヒューム自身が憲法慣習を守るためにただちに爵位を返上して補欠選挙に出馬し、庶民院議員へ鞍替えしている。
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